2017年10月22日 礼拝説教
  聖 書  詩編1章1〜6節  ヨハネによる福音書15章1〜10節
  説教者  本庄教会 疋田國磨呂牧師

  <詩編>
1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

  <ヨハネによる福音書>
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。



「 実を結ぶ御言葉の聞き方 」
 1) 二鉢のバラ、マンデビラの花
 これは、私が3月まで仕えていた大宮教会での出来事です。とても花木の好きな御夫妻が2016年3月末に転居された時に、二鉢のバラの木をくださいました。
二鉢とも枝葉を切り込んでありました。一鉢を大宮教会の玄関の入り口に置き、もう一鉢を牧師館のベランダに置きました。両方共に水を欠かさないように気を付けました。
 教会の玄関のバラは、5月末に、ピンクの花を三つも咲かせたのです。ところが牧師館のバラは葉だけが茂って花芽を着けている様子がないのです。
その違いは何かと考えました。教会の玄関の方は、毎日、太陽の光、日光を浴びて育っていたのです。牧師館の方は、垣根の木の葉が茂っていて、日光が直接当たっていなかったのです。いくら水を注いでも日の光を直接受けないと葉ばかりが茂り、花芽を着けないのです。
これはいけないと思って、牧師館のバラの鉢を教会の玄関にもって来ました。もう一鉢は既に花が咲き終わり、新しい枝が生えていました。牧師館にあったバラは、毎日、日光を浴びていますが変化がなく、ビル風が強いので、茂っていた葉が痛んだりしました。
ところが日光を浴び始めて二ヶ月、7月の末ころ、新しい枝が生え出て来たのです。そして、花芽を着けて、8月初めの週に三つのバラの花が咲いたのです。その時、初めから教会の玄関に置かれたバラの木も、新しい枝からバラが一つ咲きました。
 この二鉢のバラの木から、教えられたことは、どれだけ水を注いでも、日の光が当たらないと花を咲かすことができないということでした。日の光には、花木の花を咲かせる力があるのです。花が咲けば実も結ぶのです。
私たち信仰者も、光を受けないと花を咲かせて、実を結ぶことができないのです。
イエス様は、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)と言われています。私たちが受けなければならない光は、イエス様からの光なのです。イエス様の光を受けると、バラの木のように花を咲かせることができるのです。・・・・私たちの咲かせる花は、どんな花なのでしょうか。・・・・・

 この4月、本庄教会に遣(つか)わされて、本庄教会がここにあって、人がいて、息づいていることを現したいと思って、教会の前に、本庄児玉駅前のカインズで「マンデビラ」の苗を買って来て植えました。初めての植える花の苗なので、どんな花が咲くのかと楽しみながら水を注いで来ました。マンデビラは、アフリカや南米の暑い国の花のようで日の光をいっぱい受けることを好む花だそうです。ところが、マンデビラを植えたプランターは北向きなのです。日の光が直接当たるのは、早朝から7時過ぎまで、午後3時頃から日没までしかないのです。日の光の好きな花は、果たして花を咲かせるのだろうかと心配していました。しかし、7月9日、初めて真っ赤な花が1輪咲きました。それから2ヶ月余り、咲き乱れるように真っ赤な花が咲いています。全部で12本を4つのプランターに植えたのですが、同じように育たないのです。どういうわけか4つのプランターには、なかなか伸びず、花芽もなかなかつけないものが1本ずつあるのです。ところが8月に入ると、伸びないながらも花を咲かせ、わきから出た つるがどんどん伸びて、たくさん花をさかせるようになったのです。マンデビラにも個性があって、成長の度合いが違うのです。
私たち人間も、それぞれ個性があって、成長の度合いも違うのです。そして、だれでもキリストを信じているならば救いの恵みの花を咲かせることができるのです。


2) 主イエスはぶどうの木、私たちはその枝である。
 さて、今日の聖書の箇所は、どうしたら私たち人間がイエス様の光を受けて、花を咲かせ、実を結ぶことができるのか、ということを、イエス様自らがぶどうの木と枝のたとえを通して教えておられています。
ここでは、「わたしは世の光である」と言われたイエス様の光を受けることは、ぶどうの木であるイエス様に私たちが枝としてつながることだと言われています。

5節に、イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。わたしがその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と言われています。
更に6節に「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて焼かれてしまう。そし集められて焼かれてしまう。」と言われています。

私たちは、木と枝の関係は良く分かります。木の幹は地面に根を下ろし、水分や栄養分を吸い上げ、それぞれの枝に与えます。もし、枝が幹から切り離されたら、枯れてしまい、投げ捨てられて、たき木として焼かれてしまいます。
私たちは、枝が木の幹につながっていなければ、花も実も結ばないことをよく分かっています。
  ところが、木と枝の関係が、イエス様と私たちの関係であると言われても、わかるようでわからないのではないでしょうか。
よく言われるのです。わたしはイエス様を信じて生活しているのに、どうもクリスチャンとして花を咲かせたり、実を結ぶことに自信がなく、確信がもてないのです。と。
  イエス様が「わたしにつながっていなさい」と言われる「つながる」という言葉のギリシア言語は「メノー」と言い、「とどまる」という意味です。
宝石にめのう≠ニいうのがありますね。宝石のメノウをメノーと言うと、ギリシア語の「つながる」「とどまる」の意味になるのです。「メノー」はヨハネ福音書のキーワードです。鍵の言葉です。
9節に「父がわたしを愛したように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と言われていますが、この「とどまる」もメノーなのです。
イエス様が父なる神様にとどまり、父と子は一体となります。そのように、弟子たち、即ち、イエス様をキリストと信じているクリスチャンたちも、イエス様にとどまっているならば、イエス様と私たちは一体となるのです。そして豊かに実を結ぶことができるのです。
  イエス様にとどまること、つながることは、どんなことなのでしょうか。
7節に「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」と言われているように、イエス様の御(み)言葉に聞いて、その御言葉を私たちの内にとどめることなのです。

同じ、ヨハネによる福音書の8章31節に「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」と言われています。イエス様の御言葉を聞いて、その御言葉にとどまって生きることが弟子の本質なのです。また、クリスチャンの本質なのです。
御言葉にとどまることについて、今日、午後の学びで、「聖書の御言葉の聞き方」、ディボーションについて学びます。
ところで、イエス様が「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」という御言葉にとどまることは、皆さまが、既によくしておられるのです。
それは、今、こうして礼拝を共に献(ささ)げていることです。礼拝は神様を愛する行為であります。説教を通して神様の御言葉に聞き、その御言葉に留まるのです。また祈祷会(きとうかい)で、御言葉の勧(すす)めを聞いて共に祈る時もそうです。あるいは、個人的に毎日、聖書日課を読んで御言葉に聞いて祈ることも、そうなのです。

 イエス様の御言葉にとどまるならば、7節後半から8節の主の約束が実現するのです。
「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたは豊かに実を結び、わたしの弟子となるならば、それによってわたしの父は栄光をお受けになる。」
イエス様の御言葉につながり、御言葉にとどまるならば、
@ 望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられるのです。
A豊かに実を結ぶ弟子となるならば、父なる神が栄光をお受けになるのです。
これは、御言葉にとどまって生きる者へのイエス様のお約束なのです。


3)イエス様の御言葉が、私たちの内にいつもとどまるとは、
 このお約束が、私たちの信仰生活に実現するためには、イエス様の御言葉がいつも私たちの内にどどまらなければなりません。

皆様に、「主の弟子として生きる喜び」と題したものをお渡ししてありますが、その最後に、「心の王座にキリストを迎える」という項目に、「神と私との関係」という図がありますが、それをご覧ください。
・左側の図は、キリストのことを聞いても、知っても、キリストは自分の心と全く関係なく外側に置いて生る人です。自分の心の王座には「自分・私」が位置し、自分の思いや考え通りに生きるのです。自分の思いや考えと違う者を裁いたり、否定したり、自己実現のためには人と争うこともいとわないのです。ノンクリスチャンの人です。

・真ん中の図は、 キリストを信じて、洗礼を受けてクリスチャンとして生活します。しかし、その心の王座には、相変わらず自分が位置し、必要な時にだけキリストを王座につける人です。
余り喜びがなく、感謝もなく、クリスチャンとして確信がなかなかもてないのです。しかし、自分はクリスチャンとして正しいことを知っているので、他人を裁いてしまうのです。隣人を愛しなさい、赦しなさいという主の御言葉を思い起こして、悔(く)いて、懺悔(ざんげ)するのです。パウロのいう「わたしの中に住んでいる罪」の自分と神の律法(りっぽう)を喜ぶ「内なる人」の自分、すなわち自分の中にある2つの自分と葛藤(かっとう)する人(ローマ7:15〜25)なのです。

・右側の図は、キリストを信じて、洗礼を受けてクリスチャンとして生活します。その心の王座にはキリストをいつも置ける人です。
どんな時でも、日々、王座におられるキリスト、イエス様の御言葉に聞き、祈りの生活をする人です。詩編1:2の御言葉のように「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」です。「内なる人」として、永遠の命の約束、御国(みくに)の予約席を握っていつも喜び、祈り、感謝のできる人なのです。
私たちクリスチャンは、真ん中の図の姿から、右の図の人へと、成長し、成熟していくのです。
クリスチャンの成熟とは、自分の心の王座にいつもキリストを置けるようになることです。クリスチャンとしての生き方に自信がなく、確信がない人は、自分の心の王座にキリストがいつもおられないからです。
心の王座にキリストが、いつもおられる生活をするために、毎日御言葉に聞くディボーションが大切なのです。
「ディボーション」というのは、英語で「心を注(そそ)ぐこと」「献身」の意味で、複数形で「信心」「日常のお祈り」の意味です。
私たちは、毎日、聖書の御言葉に耳を傾け、神様が何を示し、何を教えようとしているかを聞き、祈る時を持つことです。黙想とも言われます。
聖書は、キリストを信ずる者に生ける命の言葉を与えるものなのです。
今日の御言葉のように、キリスト・イエス様の御言葉を聞いてとどまる者には、魂を生かす霊的な水、御言葉が与えられ、豊かに実を結ぶことができるのです。


4)人間と神の御言葉
 イエス様は「人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)と言われています。
なぜ、「人は神の口から出る」御言葉を必要とするのでしょうか。
それは、人間は神様によって「神のかたち」として造られ、その鼻に神様の命の息・霊を吹き込まれて生きる者となったからです。創世記1:27、2:7に記されています。
人間は、造り主である目に見えない神様と霊的に向き合い、交わるように造られたのです。それを「神のかたち」と言います。神様はお造りになった全てのものを御覧になって、「見よ、それは極めて良かった。」と満足されておられます。
ところが、アダムとエバが蛇に誘惑されて、神様が食べると必ず死ぬよと禁じられていた善悪を知る木の実を食べてしまったのです。それ以来、人間は、神様から背を向け、神様の御心(みこころ)を聞かないで、自分の善悪の判断で生きるようになってしまったのです。それが聖書で言う「罪」なのです。
 人間は、神様の霊を吹き込まれて造られたものですから、目に見えない霊的なものに無意識のうちに反応するのです。私は、それを「宗教心」と呼んでいます。
それ故、人間は物質的なものに満たされていても、霊的な飢え渇きをするのです。
私たちは、イエス様を通して、目に見えない神様との関係が破れている、罪の状態にあることを示され、「罪」を知ります。イエス様は、その人間の罪を赦すために、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と罪の赦(ゆる)しを祈り、御自身の命を私たちの身代わりの犠牲として献げられたのです。
私たちは、聖霊(せいれい)の助けによって、十字架につけられたイエス様を自分の救い主・キリストと信じるようになります。また、聖霊の助けによって目に見えない神様を「アッバ、父よ」と呼んで祈ることができるようになります。そして神様の子とされ、神様と交わることの出来る「神のかたち」を回復することができたのです。
「神のかたち」を回復した私たちにとって、神の口から出る一つ一つ御言葉が人間を霊的に生かす糧(かて)として必要なのです。


5)キリストに似たものとされる
最後に、私たちキリストを信じる者はキリストと似たものにされるということです。
「神は前もって知っておられた者たちを、御子(みこ)の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」(ローマ8:29)と言われています。御子の姿に似たものにされるとはどうことでしょうか。それはキリストの御言葉に聞いて、その御言葉を私たちの内にとどめることです。キリストの御言葉は、キリストの人格です。キリストの人格を私たちの内に宿せば、キリストの香りが放たれます。肉の欲望に捉われて自分中心であった私たちが、イエス様をキリストと信じて、御言葉に聞いてとどまるとき、イエス・キリストの人格が私たちの内に宿り、神様中心に生きることができるように変えられるのです。少しずつキリストに似たものとして変えられ、キリストが愛されたように互いに愛し合うことができるようになるのです。
 私は18歳の時、仏教の南無妙法蓮華経≠ニ唱える日蓮宗からキリスト教に変えられました。その時、牧師は「疋田さんは18年間仏教徒だったから、キリスト教徒に成り切るまで18年かかると思いなさい。」と言われました。洗礼(せんれい)を受けてすぐ東京に来て、中渋谷教会に連なって信仰生活をしましたが、礼拝(れいはい)を休むと神様が消えてしまうように感じて、礼拝を休まないように一生懸命でした。5年ほど経ったとき、ホーリネス系のインマヌエル綜合伝道団の兄弟と親しくなり、聖書を毎日、神様の御言葉として聞くように教えられました。27歳で伝道者を志して献身しましたから、キリストに似たものとして変えられることを祈り求めるようになったのに、10年近くかかったのかもしれません。
イエス様の御言葉に留まることは、イエス様の人格を宿すことなのです。そして御子に似たものとして変えられて行くのです。


<祈り>
天の父なる神様、あなたの御言葉に聞いてあなたの御心を知り、あなたを喜ぶことのできる礼拝を感謝いたします。イエス様の御言葉につながって、御言葉にとどまることによってキリストに似た者として花を咲かせ、実を結ぶことの出来ることを感謝いたします。
聖霊なる神様、この週も御言葉にとどまって生きることを喜ぶ者としてお導きください