2017年11月5日 永眠者記念礼拝説教
  聖 書  ヘブライ人への手紙11章13〜17節
  説教者  山岡 創牧師

11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
11:14 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。
11:15 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。
11:16 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。


「 心の故郷を探し求めて 」
 本日は〈永眠者記念礼拝〉の日を迎えました。日本の暦でお彼岸やお盆のように、亡くなった方を供養する日があるように、キリスト教の暦では、11月の最初の日曜日を、〈聖徒の日〉と定めています。ちなみに聖徒とは、イエス・キリストによって清められ、天国に召された信徒のことを言います。この日に、教会では、天国に召された方々を記念し、偲ぶ時を持ちます。坂戸いずみ教会では例年、午前の永眠者記念礼拝と、午後は地産霊園(越生町)の教会墓地で墓前礼拝を行います。
 ところで、自分たちで定めながらこう言うのもなんですが、私は“永眠者”という言葉にちょっと引っかかるものを感じています。確かに、聖書においても、死んだ方を“眠る”という表現で表している箇所があります。けれども、永久に眠るわけではありません。この世の終わりの時、神さまが新しい天と地をお造りになる時、眠りから覚めて、新しい神の国に復活して生きる者となる、というのが聖書に記され、約束されていることです。だから、永眠者ではなく、もう少しふさわしい言葉はないかと考えています。
 余談になりますが、聖書には死後の世界について、大きく分けると二つの内容が書き記されています。一つは、今お話したように、眠りからの復活です。そして、もう一つは、死後すぐに天国に召されるという内容です。キリスト教2千年の歴史の中で、この世が終わり、新しい天地が造られるという信仰が薄れるにつれて、死んだら天国に召されるという信仰がスタンダードになっていったと思われます。そういう意味では、私たちもまた、天国の信仰、天国の希望に生きています。
 昨年のこの日以降、一人の教会員を天に送りました。Aさんが、8月27日に天に召されました。再発した脳腫瘍による脳ヘルニアが原因でした。43歳という若さでした。A
さんは、この教会が1992年に設立された時、川越市の初雁教会からご家族と一緒に転籍された創設メンバーの一人でした。まだ高校生でした。バザーの時はいつも、プロ顔負けのおいしいたこ焼きを作ってくれました。仕事のため、結婚して転居したため、また後半は7年前に患った脳腫瘍の影響のため、日曜日の礼拝にいつも出席することはできませんでした。けれども、“どんなに小さくささやかであっても、毎日の生活の中で、神さまのご用に用いていただきたい”と祈り願いながら、日常生活を歩んでおられたようです。
 Aさんは、もはや痛みも苦しみもない平安な世界に召されて行ったと私たちは信じています。私たちが地上でお別れした多くの方々が天国に迎え入れられていると信じています。
キリスト教信仰を持っていなかった人も天国に入ることができるのか?/他宗教の信仰を持っていた人はどうなのか?/別々のところに行かないのか?‥‥‥様々な思いや疑問が湧いて来ます。もちろん理屈ではありません。ただ、私たちが信じる神さまは少なくとも、天国に入りたいと願う人々を拒絶するような、分け隔てをするような、ケチな神さまではないと信じているのです。理屈で考えるとゴチャゴチャしますが、死後のことは神さまが私たち一人ひとりのために最善に取り計らってくださると信じて、慰めと希望を抱いて生きているのが、キリスト教信仰を持っている人間の生き方です。

 さて、すべての人間が迎え入れていただくことができる天国ですが、聖書はその場所こそ、私たちの「故郷」だと言います。「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」(16節)と書かれているとおりです。
 アブラハムという人がいました。今日読んだ聖書箇所の直前、8節に、「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出ていくように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」と記されています。
 アブラハムの物語は、旧約聖書の初めにある創世記の12章以下に描かれています。12章において、アブラハムは、罪のはびこる世界において、神さまに祝福されるモデルとして生きるようにと選ばれます。その際、彼は、「生まれ故郷を離れ、‥‥わたしが示す地に行きなさい」(12章1節)と命じられます。しかし、その時点では、その土地がどことは示されていませんでした。けれども、アブラハムは神を信じ、神の言葉に従って旅立って行きます。カルデアのウルからハランへ、そしてハランを出発して旅をし、カナン地方に入り、シケムという町まで来ました。その時初めて、神さまは、「あなたの子孫にこの土地を与える」(7節)と、約束の地を示されたのです。カナン地方というのは、現在のパレスチナ地方です。余談ですが、この神の約束が原因で、パレスチナ人とユダヤ人の間に領土を争う、現代のパレスチナ問題が引き起こされているのです。
 ともあれ、アブラハムは、信仰によって神の言葉に従い、新しい地を目指して旅立ちました。その行動を、ヘブライ人への手紙は、「故郷を探し求めている」(14節)という言葉で表しています。生まれ故郷ではありません。“第二の故郷”と呼ぶべきものです。
 人にはそれぞれ故郷があります。皆さんの故郷はどちらでしょうか?私は、埼玉県の川越市で生まれ、27年間、川越で育ちました。川越祭りのお囃子を聞くと、今でも何だか血が騒ぎ出すようなところがあります。けれども、お隣りの坂戸市に住んでいるせいか、故郷の懐かしさのようなものはあまり感じません。年齢のせいもあるでしょうか。あるいは、牧師の家庭に生まれたため、自分の“家”というものがないからかも知れません。牧師館という借家に住み、今では両親は隠退して別の場所に住んでいます。だから、故郷に“帰る”という懐かしい感覚があまりないのです。
 そういう意味では、むしろ私は、長野県の富士見高原に愛着を覚えます。そこは、妻の母方の実家があった土地でした。夏期休暇をいただくと、私たち家族は、富士見高原にしばしば旅行に出かけました。そのため、私は富士見高原に、新しい故郷、第二の故郷のような印象を感じています。
 アブラハムは、生まれ故郷を離れ、新しい故郷、神の約束の故郷を探し求めて旅をしました。けれども、「約束されたものを手に入れませんでしたが」(13節)とあるように、その地を手に入れたのは、アブラハムの子孫たちでした。彼は地上で、約束されたものを手に入れずに死にました。けれども、それは無駄死にでも、無意味な人生でもありません。アブラハムは、新しい故郷を探し求めて生きました。そして、「信仰を抱いて死にました」(13節)。信じて、救いを探し求めて生きる人生は、決して無駄でも、無意味でもありません。神さまは、そのアブラハムに、地上の故郷にまさる故郷を、「天の故郷」、天国を用意しておられた、と書かれています。
 天を故郷として生きる。それが、クリスチャンの生き方です。それは、天を“第二の故郷”“新しい故郷”として生きるということです。

その意味では、クリスチャンは“留学生”です。天の故郷からやって来た“地上の留学生”です。聖書はそれを、「地上ではよそ者であり、仮住まいの者である」(13節)と語っています。
もちろんクリスチャンにとっても、天国というのは、見たことのない、行ったことのない未知の世界です。それを信じて故郷とするということは、言わばIターンにたとえることができるでしょう。“天国へのIターン”です。
Iターンというのは、都会で生まれ育った人が地方の企業に転職したり、転居したりすることを言います。地上が都会で、天国が地方かどうかは分かりませんが、新しい場所へ移住し、そこを新しい故郷にするという意味では、天国へのIターンと言ってもよいのではないでしょうか。
ただし、まだ転居、移住はしていません。今は地上での生活を送っている。しかし、もう既に転居を神さまから許可されている。天国に自分の住む家を持っている。洗礼を受け、信仰を持っているということは、今既に、天国転居の契約をして、その権利を持って生きている、ということです。地上の生涯を終えた後で、行く場所が約束されているのです。
私たちは、“安心の場所”を持っていると、自分が置かれたところでポジティブに生きられるのではないでしょうか。例えば、単身赴任の生活でも、何年か後には家族の元に帰ることができるという安心があれば、大変でも忍耐して、希望を持って生活し、働くことができるでしょう。
天国とは、信仰によって与えられる“安心の場所”です。究極の安心です。地上での生活が、どんなに苦しくても、大変でも、行ける場所があるというのは、私たちに安心を与えます。希望を与えます。そして、行った先で、既に転居、移住している愛する家族と再会できる、親しい友人と再会できるという信仰は、私たちに慰めを与えます。私たちは、亡くなった人を偲ぶ時、また、やがて迎える自分の死を思う時、信仰を抱いているならば、この安心と希望と慰めを抱くことができるのです。
 だから、クリスチャンは、地上での苦しみ、悲しみに縛られずに生きることができる。地上でのしがらみや、他人の目にこだわらずに生きることができる。目に見える出来事や物質的なモノから解放されて、自由に生きることができる。それが地上でのクリスチャンの“仮住まい生活”です。
 もちろん、生活するためにお金や物は必要ですし、信仰があってもこの世での出来事に苦しみ、悲しむことだってあります。社会の常識や身近な人間関係から自由になれないこともあります。それでも、私たちの最大のつながりは、神さまとのつながりです。天の故郷とのつながりです。神さまの御心(みこころ)であり、神さまの愛が、私たちを常に導き、支えていると信じます。だからこそ、地上でのしがらみ以上に、天とのつながりを大切にして生きたいと願っているのです。天の故郷での生き方、価値観を大切にしながら、この地上で生きたいと願っているのです。

 今日、礼拝の初めに、〈深い川を越えて〉という讃美歌を歌いました。
 深い川を越えて さあ、行こうよ。なつかしい心のふるさと指して(讃美歌?175)
この讃美歌の元は黒人霊歌です。現代では、黒人という言い方は不快用語だということで控えたいと思いますが、彼らアフリカン・アメリカーナの人々には、奴隷制度という苦しみがありました。人種差別という現実がありました。まさに、越えたくても渡ることができない深い川です。けれども、彼らは神さまに慰めを見出しました。信仰に希望を抱きました。自分たちには、なつかしい心のふるさとがある。奴隷の苦しみも人種差別もない故郷がある。そのふるさとに必ず帰れると信じて、苦しみと差別の現実を、心の中で越えて、信仰の喜びと希望に生きたのです。そして、社会の中で、地道に、粘り強く、この深い川を越えようと努力を続けている、と言ってよいでしょう。
 私たち一人ひとりの人生にも、渡れないと絶望するような深い川があるでしょう。けれども、神さまに支えられる時、主イエス・キリストに手を取っていただく時、その深い川を渡ることが可能になります。深い川の向こう岸にある“心のふるさと”、「天の故郷」を信じる時、それが可能になります。この地上において、聖書の御(み)言葉に導かれ、心のふるさと、天の故郷を目指して、希望と安心を抱いて歩んで行きましょう。