2017年11月19日 礼拝説教
  聖 書  ヨハネによる福音書4章16〜26節
  説教者  山岡 創牧師

4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
4:19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」




「 まことの信仰、まことの礼拝 」
                 〜 わたしを信じなさい 〜
 ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)4章1〜42節には、サマリアの女が主イエスと出会い、信仰へと至る物語が描かれています。先週の礼拝説教において、この物語には、一人の人間の信仰が成長していく過程が描かれているとお話しました。最初は、救いを求める“求道”、次に主イエスを信じる“信仰”、そして主イエスを宣べ伝える“伝道”です。本日の聖書箇所は、その中間、“信仰”の部分に当たります。
 少し先週の説教のおさらいになりますが、主イエスはユダヤ地方からガリラヤ地方に向かう途中、サマリア地方のシカルという町に立ち寄られます。のどの渇きを覚え、井戸のそばで休んでいると、一人の女が水を汲みに来ました。「水を飲ませてください」(7節)と主イエスが頼んだことから、「生きた水」について、二人の対話が始まります。
 この対話がかみ合わない。主イエスが語る「生きた水」とは、「その人の内で泉となる」(14節)ような水、つまり人の内なる渇き、心の渇きをいやす何かです。けれども、この女が求めるのは、人が飲み、生活で使う普通の水だからです。
 主イエスは、人の内側を考え、精神的な事柄を問題にし、人の心の渇きをいやす救いを与えようとしています。けれども、女は、人の外側を考え、物質的なものを求めています。それは、私たちもまた陥りやすい主イエスとのすれ違い、宗教とのすれ違いです。
 人は、宗教に救いを求めようとする時、問題解決を自分の内側ではなく、外側に求めることが少なからずあります。例えば、病気が治る、仕事や生活がうまく行く、お金が儲かる、願った学校や会社に入るといった、目に見える結果、現実的な利益を求め、それを得ることが救いだと考えるのです。もちろん、抱えている問題が苦しく、切実なほど、そのように求めたくなる気持が分からないわけではありません。また、求めるのが悪い、と言うのでもありません。けれども、主イエスが与えるものは、人を内側から救うものであり、その人がどんな問題を抱えていても、その人が生きていく上で土台となるような、支えとなるような、希望となるような、そんな人生の根本的な救いだと言うことができます。
 けれども、そのような精神的な、根本的な救いを得るためには、まず自分の現実と向き合い、自分の問題を認める必要があるのです。現実から逃避し、自分の問題を棚上げにして、表面的なところで求めても、救いは得られないのです。

 サマリアの女は、「その水をください」(15節)と主イエスに求めました。ところが、主イエスは、ここでガラリと話題を変え、まるで何の関係もないかのようなことを言い出します。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)。
 女はハッとしたことでしょう。触れられたくない問題に触れられた不快さを、あるいは恥ずかしさを感じたかも知れません。それと同時に、何が言いたいのだろう?という疑問も感じながら、「わたしには夫はいません」(17節)と女は答えたのでしょう。
 ところが、主イエスは、この女性が抱えている現実に、ズバリと切り込んで来ます。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」(18節)。
 ユダヤ人の律法には、夫が死んで後継ぎの男子がいない場合、未亡人となった女性を、その夫の兄弟が娶(めと)り、後継ぎをもうけなければならない、という掟があります。けれども、5人すべてが死別とは考えにくい。死別もあったかも知れませんが、ほとんどが離婚だったと思われます。当時のユダヤには、妻からの離縁はありません。夫が妻に離縁状を渡して離縁する。どんな理由があったかは分かりません。この女性に問題があったのかも知れませんし、夫の方が身勝手だったのかも知れません。何にせよ5人の夫と別れ、その経験から人間不信に陥り、愛が信じられなくなっていったのではないでしょうか。それでも、愛に渇いている。けれども、かつての経験とそこで受けた傷から、6人目とは結婚できず、かと言って離れられず、中途半端な同棲をしていたのでしょう。
 私の勝手な想像です。けれども、5人の夫と別れ、6人目の男と連れ添っている現状は、この女性にとって恥ずかしいことであったことは、たぶん間違いありません。と言うのは、この女性が井戸に水を汲みに来たのは、「正午ごろ」(6節)だったからです。普通、ユダヤ人の女性は、暑い日中を避けて、朝、井戸に水を汲みに来る。足りなくなれば、夕方もう一度、水を汲みに行きます。その時間を避けて、わざわざ暑い日中に水を汲みに行ったのは、人と会いたくないからだと思われます。みんなから白い目で見られ、ヒソヒソと陰口を言われるのを、この女性は耐えられなかったのでしょう。
 けれども、主イエスは、この女性が抱えている触れられたくない現実に真っ向から触れて来ました。これは、主イエスにデリカシーがない、ということでしょうか。そうではありません。
 もちろん、私たちは、親しい間柄であっても、相手が自分から話さない限りは、その人の触れられたくない問題には踏み込まないのがエチケットでしょう。主イエスがここでサマリアの女の問題に踏み込んでいるのは、デリカシーの有る無しの問題ではないのです。これは、人が宗教的な救いを求める限り、避けては通れない事柄だということを表わしているのです。主イエスに救いを求める時、必ず問われ、向き合わされずにはいられない問題なのです。
 第2次世界大戦後、フランス文学者、哲学者、そして牧師として生きた森有正という人がいます。この方が〈心の一隅〉という言葉で次のように語っています。
人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そういう場所でアブラハムは神さまにお眼にかかっている。そこでしか神様にお眼にかかる場所は人間にはない。人間がだれはばからずしゃべることのできる、観念や思想や道徳や、そういうところで人間はだれも神様に会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことはできない。(『土の器に』日本基督教団出版局、より)
 創世記のアブラハムについて語りながら、森有正さんは、人が宗教的な救いを求める時、どうしても避けては通れない、向き合わなければならない問題を語っています。自分を棚に上げて、表面的なところで、綺麗事で済まそうとしても、「生きた水」を得ることはできないのです。心の一隅での渇きが、主イエスの救いを得る鍵となります。

 主イエスは、サマリアの女が抱えている問題に真っ向から触れて来ました。その言葉に、この女性も、ハッとして、心に響くものを感じたようです。自分の問題を言い当てた主イエスを「預言者」と認めながら、彼女は、主イエスに応えます。
「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(20節)。
 これは、神を礼拝する場所はどこですか?という主イエスへの問いかけです。サマリア人たちは、サマリア地方にあるゲリジム山に神殿を建てて、礼拝を守って来ました。他方で、ユダヤ人は、エルサレム神殿で礼拝を守って来た。いったいどちらの場所で神を礼拝するのが、「まことの礼拝」でしょうか?と、この女性は尋ねているのです。
 この女性の抱えている問題から話の筋がずれたかのように思われます。けれども、そうではありません。主イエスの言葉によって、彼女は、向き合うことを避けて来た自分の問題に、初めてかも知れません、向き合ったのです。そしてそこに、このままではいけないとの反省の気持、神さまに対する罪を悔い改めたいという願いが起こったに違いありません。けれども、自分ではどうすることもできない。どうしてよいか分からない。神さまに助けていただく以外にない。そのためには、真剣に神さまと向かい合い、礼拝し、祈り、救っていただく以外にない、と思ったのでしょう。その思いが、では、どこで礼拝をすればよいのか?という問いかけになって現れたのです。
 この問いかけに、主イエスが答えます。
「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。‥‥‥まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(21〜24節)。
 主イエスは、「まことの礼拝」をするには、場所が問題なのではない、と答えています。場所はどこでも良いのです。大切なことは、神をどのように礼拝するか、です。
 彼女への答えの中で、主イエスは3度、神を「父」と呼んでいます。まことの礼拝とは、神を父として礼拝することだと主イエスは考えておられるのです。
今まで、ユダヤ人は、神を「父」などと親しく呼んだことはありませんでした。神さまと自分たちの間に大きな隔たりを覚え、恐怖すら感じていました。それはサマリア人も同じだったでしょう。
主イエスが初めて、神を「父」と呼びました。それは、小さな子どもが“お父ちゃん”と呼ぶようなニュアンスです。それは、神に親しみを感じ、神に愛されていると信じているからこそ出て来る呼び方です。まことの礼拝とは、神さまを「父」と呼び、神さまが自分を愛してくださっていることを信じ、感謝して営む礼拝のことです。
 私は、このことから、韓国の牧師イ・ミンソプさんが作詞作曲した〈きみは愛されるため生まれた〉というゴスペル・ソングにまつわるエピソードを思い起こしました。長崎に、親子関係の不和から家出をして、万引きやシンナーにふける少年少女たちがいました。ある晩、そんな少年少女たちが川原で騒いでいるのを見つけた一人の牧師が、彼らを教会に招きました。彼らは牧師に訴えました。“どうして自分たちの人生はこんなに苦しいのか?生きていることに意味はあるのか?”と。牧師も答えに詰まったことでしょう。しかし、その時、教会の中で流れていたBGMが、この曲でした。
  きみは愛されるため生まれた。きみの生涯は愛で満ちている。‥‥
  きみは愛されるため生まれた。今もその愛、受けている。
 この歌詞を聞いた時、彼らは涙を流しました。そして、その後の牧師と教会との交流の中で、自分の人生の意味を、神に愛されている喜びを知りました。そして、彼らが長崎の町に、このゴスペル・ソングを広め、いまでは長崎のシンボル・ソングになっている、ということです。
 問題を抱えていた少年少女たちが、そのただ中で、神の救いと出会ったのです。表面的な問題が解決したわけではなかったでしょう。けれども、まことの親のように、自分を愛してくださる神と出会い、その愛によって立ち直らされ、喜びと感謝をもって生きていく人に変えられたのです。
 人は神に愛されている。これこそ主イエスが語る「真理」です。それは、どんなに理屈で考えても理解できることではありません。主イエスの語りかけを、聖書の御(み)言葉を聞き続け、真剣に礼拝を守り、祈り、求め続けて、その営みの中で、その人の内に聖霊が働くことで心の目が開け、理屈抜きにストンと心に落ちる真理です。だからこそ、まことの礼拝とは、「霊と真理をもって」する礼拝なのです。
 サマリアの女は、主イエスによって、不都合を抱えた自分を愛してくださる父なる神と出会いました。その愛こそが、彼女の「内で泉となる」「生きた水」です。主イエスによって、私たちも神の愛と出会うことができます。「まことの礼拝」を感謝してささげる者へと変えられます。