2017年11月26日 大人と子どもの礼拝説教
  聖 書  列王記上8章27〜34節
  説教者  山岡 創牧師

8:27 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。
8:28 わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。
8:29 そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。
8:30 僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。
8:31 もしある人が隣人に罪を犯し、呪いの誓いを立てさせられるとき、その誓いがこの神殿にあるあなたの祭壇の前でなされるなら、
8:32 あなたは天にいましてこれに耳を傾け、あなたの僕たちを裁き、悪人は悪人として、その行いの報いを頭にもたらし、善人は善人として、その善い行いに応じて報いをもたらしてください。
8:33 あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされたとき、あなたに立ち帰って御名をたたえ、この神殿で祈り、憐れみを乞うなら、
8:34 あなたは天にいまして耳を傾け、あなたの民イスラエルの罪を赦し、先祖たちにお与えになった地に彼らを帰らせてください。

「 神が耳を傾けるところ 」
今朝も礼拝堂の暖房を2台の石油ストーブで行っています。と言うのも、床暖房のボイラーが壊れてしまったからです。先週の火曜日に業者の方を呼んで、調べてもらったら、もう寿命ですね、と言われました。修理をするための部品も、このボイラーのものはもう作られていないとのことで交換を勧められました。一般的に、この手のボイラーの寿命は7〜10年なのだそうです。数えてみれば、この会堂に移転して私たちは12年7カ月の時を過ごしました。
 2005年にこの会堂を建築して、4月の末に、高麗川(こまがわ)沿いにあった旧会堂からここに移りました。その年の9月に献堂式(会堂新築の記念式典)を行いました。この礼拝堂からロビーまで、あふれるばかりに、埼玉の諸教会から多くの人がお祝いに集まってくださいました。その真ん中を、子どもたちが〈主の招く声が聞こえて来る〉を賛美しながら入場し、正面に一列になって歌いました。“これから献堂式を始めます”とも言わずに、いきなり子どもたちの入場と歌声から始める演出でした。
 今日読んだ聖書箇所は、言わばエルサレム神殿の献堂式の場面です。イスラエル王国3代目の王であるソロモンが、エルサレムに立派な神殿を建築しました。神の契約の箱を置くためです。神の契約の箱とは、十戒を刻んだ石の板が2枚、納められている箱です。かつてイスラエルの先祖たちがエジプトから脱出した時、自分たちを救いだしてくださった神さまと契約を結びました。自分たちとその子孫は、主なる神さまだけを神と信じて礼拝を守る、と。その契約のしるしとして与えられたのが、十戒を刻んだ石板で、言わば“契約書”みたいなものです。
 その石板を入れた神の箱は、ずっと幕屋(まくや)と呼ばれるテントの中に置かれていました。王国が大きくなって、安定して、ソロモン王が初めて神殿を造りました。そして、神の箱を幕屋から神殿に運び入れる式典を行いました。その式典において、ソロモン王は、感謝の祈りをささげました。その祈りの一部が、今日読んだ聖書箇所です。

 この祈りの中で、ソロモン王は、「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることはできません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(27節)と語っています。
 ソロモンは、神さまのために、とても大きくて、美しい神殿を建てたのです。けれども、ソロモンは“これがおれの力だ”と自分を誇りませんでした。こんなに大きくて、立派な神殿だから当然、神さまも喜んで住んでくださる、とは考えませんでした。たとえどんなに大きく、立派な神殿を建てたとしても、神さまの力、神さまの偉大さにはふさわしくないことをソロモンは知っていました。だから神さまの前で小さくなりました。自分の力を誇らずに、小さくなりました。
 私たちは、礼拝で〈主の祈り〉を祈ります。その最初に、“天の父よ、み名があがめられますように”と祈ります。この“あがめる”と訳されている言葉は元々“大きくする”という意味を持っています。神さまを大きくする、神さまを偉大なお方として讃(たた)えるのです。
 それは裏返せば、自分を小さくするということです。自分の力を誇らず、神さまの前に小さくなる。それを“謙遜”と言います。謙遜な心こそ、まことの礼拝をささげるために必要な心の姿勢でしょう。

 ソロモン王は自分の小ささを自覚し、自分が建てた神殿など、神さまの住まいとしてふさわしくないと思いました。ただ、ソロモンは神さまに、次のことを祈り願いました。それは、「夜も昼もこの神殿に、この所に御目(おんめ)を注いでください」(29節)ということ、「この所に向かって僕(しもべ)がささげる祈りを聞きとどけてください」(29節)ということでした。人間が造った小さな神殿に住んでくださらなくていい。ただ、この神殿を天から見守り、ここでささげられる心からの祈りに耳を傾け、聞き届けてください。それが、神殿を建築したソロモン王の願いでした。
 例えば、AさんがBさんに、自分のカバンを預けたとします。けれども、Bさんはそのカバンを失くしてしまった。しかし、Aさんは、失くしたとは思わず、Bさんが自分のものにしようとして隠しているのではないか、嘘をついているのではないかと疑ったとします。その時、Bさんは、神殿でお祈りをします。“神さま、わたしはAさんのカバンを盗んではいません。もし盗んだのなら、わたしがあなたに呪われて、自分の家を失ってもかまいません”。そんなふうに祈り、神さまに誓うのです。そして、もしBさんが嘘をついているなら、神さまが罰し、Bさんが誓った呪いのとおりにおこなってください。しかし、もし本当のことを言っているなら、Bさんの正しさがAさんに伝わるようにしてください。31節以下でソロモン王が願っていることは、そういうことです。私たち人間の祈りに、言葉に、真実に耳を傾け、正しく裁いてください、ということです。
 最近は携帯電話、スマートフォンが普及したため、公衆電話を見かけなくなりましたが、神殿とはある意味で、神さまと言葉を交わすための公衆電話ボックスのようなところだと考えても良いのでしょう。

 神殿は、神さまが私たちの祈りに耳を傾け、聞き届けてくださるところです。主イエスも、神殿は「祈りの家でなければならない」(ルカ19章46節)と言われました。神殿を利用し、神さまを利用して商売をし、大儲けをしようと欲張っているような、自己中心な人々が、そういう自分の罪に気づいて、悔い改めて祈る場所であってほしいと願われました。その主イエスの願いが込められた譬え話があります。〈ファリサイ派の人と徴税人のたとえ〉です(ルカ18章9節〜)。
 ファリサイ派の人と徴税人が神殿に行き、祈りをささげました。ファリサイ派というのは、神さまの掟を熱心に守る人々です。その一人が、神殿で、自分はあの掟も守っている。この掟も行っている。献金もしっかりささげている。また、あそこにいる徴税人のような罪人でもありません。そんな自分の信仰生活を感謝します、と祈りました。感謝しますと言いながら、自分の力を誇り、他人を見下げているのです。
 けれども、徴税人は、神さまの掟を守れず、欲と金にまみれてきた自分の罪を思い、神殿の後ろで胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)と祈りました。この二人のうち、神さまに赦されて、「義とされて家に帰ったのは」(14節)、ファリサイ派の人ではなく、徴税人だと、主イエスはお話になったのです。ソロモン王が、今日の33節以下で、「あなたの民イスラエルがあなたに罪を犯したため‥‥‥この神殿で祈り、憐れみを乞うなら、あなたは天にいまして耳を傾け、あなたの民イスラエルの罪を赦し‥‥‥」と祈り願っていることが、主イエスに受け継がれ、主イエスにおいて実現していると言ってよいでしょう。
 今、普段の礼拝でヨハネによる福音書の御(み)言葉から神さまの語りかけを聞いていますが、その4章、サマリアの女性と主イエスとの井戸端での対話において、「まことの礼拝」とはどんな礼拝か?ということが問題になっています。
 私は、旧約聖書の詩編51編18〜19節の御言葉を思い起こしました。
「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨(みむね)にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたはあなどられません」。
 まことの礼拝とは、神さまの前に自分を小さくする謙遜な思いをもってする礼拝でしょう。そして、謙遜な心で、自分の罪を認め、悔い改め、神さまの愛を信頼して憐れみと赦しを願う礼拝でしょう。私たちも、この教会に招かれ集まる時、51編18節にあるように、いけにえをささげるというだけの形だけの礼拝ではなく、謙遜と悔い改めを込めて祈りをささげ、神さまに喜ばれるまことの礼拝を守っていきましょう。