2017年12月3日 待降節第1主日礼拝説教
  聖 書  ヨハネによる福音書4章27〜42節
  説教者  山岡 創牧師

4:27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
4:28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
4:29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
4:30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
4:31 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、
4:32 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。
4:33 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。
4:34 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。
4:35 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、
4:36 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
4:37 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。
4:38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
4:39 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。
4:40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。
4:41 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
4:42 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」



「 さあ、見に来てください 」
サマリアの女と主イエスとの出会いは、主イエスがガリラヤ地方に帰る途中で起こりました。立ち寄られたサマリアの町シカルの井戸辺で、主イエスはのどの渇きを覚え、水を汲みに来た女に、「水を飲ませてください」(7節)と頼みます。そこから会話が始まり、やがて女は、主イエスが語る「生きた水」(10節)を求めるようになります。救いを求める求道が始まります。
 ところが、主イエスは、水の話から話題を変え、「あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)と女に言われます。夫はいないと答えた女に、主イエスは、彼女には5人の夫がいたこと、今連れ添っている6人目は夫ではないことを言い当てます。女は驚いて、主イエスを預言者と認め、更に、自分たちを救ってくださる救い主キリストが来られることを期待している、と口にします。すると、主イエスは、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」(27節)と宣言されました。
 女は、主イエスの言葉を信じたようです。「もしかしたら、この方がメシア(=救い主キリスト)かも知れません」(29節)と、期待と疑いの入り混じった半信半疑の信仰ですが、そこには、信じたい、救われたいとの期待が強く表れています。その信仰から、彼女は、シカルの町の人々に、主イエスのことを伝えに行くのです。
 4章の初めからこの話を始めた時、この話には、一人の人の信仰が成長していく過程が描かれているとお話しました。救いを求める求道から主イエスを信じる信仰へ、そして主イエスを伝える伝道へ、と大きく分けると3つの段階が描かれています。今日読みました27節以下はその最後、伝道する人の姿です。

 サマリアの女は、どうしてイエスのことをメシア、救い主キリストと信じたのでしょうか?どうして主イエスのことを町の人々に伝えようと走ったのでしょうか?主イエスが「わたしが行ったことをすべて言い当てた」(29節)からでしょうか?人の心と過去を見抜く超能力者のような力を持っていたからでしょうか?私は、そういう理由ではないと思うのです。
 主イエスが彼女の行ったことを言い当てた時、主イエスはこう言われました。「あなたは、ありのままを言ったわけだ」(18節)と。つまり、彼女はその時、自分の「ありのまま」を話すことができたのです。そして、自分の「ありのまま」を受け入れられた喜びこそ、彼女の内に「もしかしたら、この方がメシアかも知れません」という期待を抱かせ、人々のもとに走らせた要因だったと思うのです。
 それまで、人に自分の「ありのまま」を話すことなど彼女にはできなかったでしょう。5人の夫と連れ添い、6人目と同棲している彼女の生活には、相当に苦しくつらいことがあったと、それでも愛に飢え渇く胸の思いがあったと想像されます。彼女なりの言い分もあったでしょう。けれども、世間の人々は、彼女の表面的な生活ばかりを見て、あの人はふしだらな女だ、と噂し、白い目で見ていたのではないでしょうか。彼女の胸の内を聞いてくれる人はだれもいなかったのではないか。まれに、相手を信じて話してみても、非難され、否定され、彼女の心は傷つき、いよいよ閉ざされたかも知れません。だから、彼女はだれにも会うことのない正午に、水を汲みに行くことを習慣にしていたのです。
 ところが、そこに主イエスがいた。「水を飲ませてください」との言葉がきっかけとなって、不思議な会話が始まり、気づいたら彼女は、自分の「ありのまま」を話していたのではないでしょうか。私は、彼女が自分の私生活のことで主イエスに話したことは、「わたしには夫はいません」(17節)という一言だけではなかったと思います。その一言に集約される数多くの苦しみを、愛を求める胸の思いを、彼女は主イエスに話したでしょう。そして、そういう自分の「ありのまま」が聞かれ、受け入れられる喜びを味わったに違いありません。その喜びが、彼女に主イエスを信じさせ、主イエスを伝えるために人々のもとに走らせる原動力となったのだと思うのです。

 今、私たちの教会のNさんが池袋西教会で、神学生として1年間実習中です。N神学生は高校2年生の時に教会に来るようになったのですが、当時、その世代の男の子ばかり一気に教会に増えたことがありました。小学生の頃に来ていた男の子同士がたまたま電車で出会い、教会に行ってみようということになった。そして、彼らが友だちを誘い、その友だちがまた友だちを誘って、高校生男子が10人ぐらい教会に来るようになりました。夜遅くまで、時には泊まりで付き合いました。そのうちの一人がN神学生です。
私は当時、高校生にもなった男の子たちが、どうしてまた教会になんか来るのだろう?何がおもしろいのだろう?と不思議に思っていました(牧師がそう言っては箕も蓋もありませんが)。そこで彼らに、どうして教会に来るの?教会のどこがいいの?と聞いたことがありました。すると、彼らは、ここに来ると真剣な話ができる、自分が心の中で思っていることを話すことができるからだ、と言いました。学校ではそういう話はできない。そんなことを話せば、友だちに“お前、何言ってんの?”と引かれてしまう。ここでは、自分の思っていることを話し合い、聞いてもらえるからだと言いました。そして、その思いが更に友だちを誘うという動きになりました。
 人は常に、自分の「ありのまま」を話したい、そしてそれを聞いてもらいたいと願っているのだと思います。その意味では、主イエスが言われるように、「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」(35節)のだと思います。人の心は、色づいて刈り入れを待っている畑のようなものです。自分の「ありのまま」を聞いてくれる人、受け入れてくれる人を待っているのです。私たちもそうでしょう。
 そして、教会が、私たちが主イエスを伝えるということは、単純に主イエスのことを、聖書の御(み)言葉を語り伝えるだけではないと思います。教会を通して、自分の「ありのまま」を主イエスに受け入れられた、愛されたと信じる私たちが、今度は、だれかの「ありのまま」を批判せず、非難せずに聞いて受け入れる。その態度こそ、まさに主イエス・キリストの愛を伝えることだ、伝道の第1歩だと思うのです。

 サマリアの女は、町の人々のもとに、主イエスを伝えに行きました。入れ替わりに弟子たちが戻って来ました。町に食料の調達に行っていたのです。弟子たちは、主イエスがサマリア人の女と話していることに驚きながらも、「食事をどうぞ」(31節)と勧めます。すると、主イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(32節)と言われ、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心(みこころ)を行い、その業(わざ)を成し遂げることである」(34節)と言われました。
 こう言われた時、主イエスは、旧約聖書・申命記8章3節の御言葉を思い出しておられたのではないでしょうか。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」。これは、主イエスが荒れ野で悪魔と対決し、誘惑された時、引用された言葉でもあります(マタイ4章4節、他)。
 人が生き物として生きていくためにはパンが必要です。けれども、人の命には外なる命だけではなく“内なる命”があります。内なる命を生かすためには内なる食べ物が欠かせません。それが神の言葉です。そして、聖書を通して示される神の言葉を、私たちは消化して魂の栄養とし、血肉(けつにく)にするのでなければ、意味がありません。そのためには、神の言葉を聞くだけではなく、その言葉を通して示された神の御心を生活の中で行い、自分の生き方の血肉にすることが肝心でしょう。ちょっと大げさに言えば、神の言葉を成し遂げるのです。
 話は変わりますが、最近“ひふみん”こと、6月にプロ棋士を引退した加藤一二三さんが注目を集めています。バラエティー番組等にもしばしば出演して、茶の間のアイドル的存在になっています。実は加藤一二三さんは、30歳で洗礼を受けたカトリックのクリスチャンです。
 教団が発行している12月の『こころの友』に、加藤一二三さんの紹介が載りました。加藤さんには著書も多数あるようで、その中で、キリスト教について自分の体験を交えながら易しく語っている、とありました。私も読んでみたいと思いましたが、そのようにやさしく語れるのは、信仰が自らの血肉になっているからだ、と書かれています。
 例えば、日曜日のミサに家族と一緒にあずかる。対局のある時でも、近くの教会でミサにあずかる。その時、加藤さんは“神さま、勝たせてください”とは祈らない。“ベストを尽くさせてください”と祈るのだそうです。だから、その結果、負けたとしても落胆しない。“神さまが見守ってくださっているのだから、恐れることはない”と神さまを信頼して歩んで来た加藤さんの生き方の一面が紹介されていました。
 主イエスを伝道するということのもう一つの面は、神の言葉、キリストの言葉を、自分の生活の中で行い、生き方に血肉化することだと思います。キリストの言葉を生活の中で実践することで、キリストの愛を証しし、キリストの香りを放つのです。その姿を見て、周りの人たちは“何か”を感じるに違いありません。

 そのように、キリストの言葉を内なる食べ物とし、人生の血肉とするためには、「自分で聞いて」(42節)、イエスを「世の救い主」(42節)であると、“わたしの救い主”であると信じることが基本となります。
 サマリアの女から、「もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と伝えられて、シカルの町の人々は「イエスを信じた」(39節)とあります。けれども、その後で、彼らは主イエスに、町にもうしばらく滞在するように頼み、「更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた」(41節)と言います。そして、町の人々はこう言います。
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからである」(42節)。
 私たちは最初、人の言葉でも、本の内容でも、だれかが主イエスの救いを証しするのを聞いて、あるいは、牧師が聖書の御言葉を説教するのを聞いて、イエスを救い主キリストと信じて、信仰を告白し、信仰生活を始めるのではないでしょうか。それは信仰のスタートです。
 そこから進んで、聖書の御言葉、キリストの言葉を「自分で聞いて」、「この方が本当に世の救い主(わたしの救い主)である」と納得してほしいのです。つまり、聖書を自分で読み、黙想し、御言葉を通して、主イエスが自分に何を語りかけているのか、何を求めているのかを探し当てて、自分の内に納めるようになることです。そのために私たちの教会では聖書黙想と取り組んでいます。また礼拝で説教を聞くにしても、それをヒントにして、“山岡牧師の言葉”ではなく、“自分の言葉(信仰)”にしてほしいのです。人から聞いて、と「自分で聞いて」の間には、大きな開きがあるのです。
 読み始めた当初は、聖書は難しいと感じるかも知れません。けれども、時間があれば2回、3回と繰り返し読んで、もっとも印象に残る御言葉を見つけるだけでもいい。だんだん読めるようになって来ます。御言葉と他の御言葉がつながって、分かるようになって来ます。御言葉が自分の内で納得され、生活に反映し、人生の血肉になっていきます。その時、私たちは、「この方が本当に世の救い主(わたしの救い主)である」と信じ、伝えることができる人に変えられるでしょう。