2017年12月10日 待降節第2主日礼拝説教
  聖 書  ヨハネによる福音書4章43〜54節
  説教者  山岡 創牧師

4:43 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。
4:44 イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。
4:45 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
4:46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。
4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。
4:48 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。
4:49 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。
4:50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
4:51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。
4:52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。
4:53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。
4:54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。


「 神の言葉を信じて帰る 」
                〜 あなたの息子は生きる 〜
 ユダヤ地方からガリラヤ地方への旅の途中、主イエスはサマリア地方のシカルに立ち寄られました。その町でのサマリアの女性との出会いから、主イエスはシカルに2日間滞在することになります。そして、多くの人々が主イエスの言葉を聞いて、イエスを「世の救い主」(4章42節)と信じた、と直前の箇所に記(しる)されています。
 2日間の滞在の後、主イエスはサマリア地方を発ち、ガリラヤへ行かれました。ガリラヤは主イエスの故郷です。ホームグラウンドです。けれども、一つ気になる言葉が出て来ます。「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」(44節)。
 主イエスはガリラヤのカナで、水をぶどう酒に変えるという最初のしるしをなさいました。また、ユダヤ人の祭りがあってユダヤのエルサレムに上京し、そこでもしるしをなさったと2章に記されています。そのような行動を通して、主イエスは周りの人々から「預言者」と認知されつつあったのでしょう。
 「ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」(45節)と書かれています。そこだけを読むと、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われた主イエスの言葉と矛盾しているように思われます。敬われているではないか、と思われます。
 けれども、主イエスを敬ったのは、彼らも祭りでエルサレムに上京した際に、「イエスがなさったことをすべて、見ていたから」(45節)です。主イエスがエルサレムでなさったしるしを見ていたからです。
 そのようなガリラヤの人々に対して、主イエスは、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)と言われました。しるしや不思議な業がなければ、彼らにとって主イエスは「預言者」ではなく、ただの“馴染み”です。子どもの頃からよく知っている村人であり、一緒に育った仲間です。主イエスがどんなに、“神はこう言われる”と伝えても、色眼鏡で見てしまう。サマリアの人々のように、主イエスの言葉を聞いて、「世の救い主」と信じることはないでしょう。それが故郷の人々の真相だと主イエスは見抜いておられたのです。
 しるしや不思議な業を見なければ信じない信仰。私たちも、ともすればそういう信仰に陥るのではないでしょうか。不思議な業、奇跡的な出来事が起きるから、神を信じる。自分の祈り願ったことが叶うから、神を信じる。それがなかったら信じない。私たちは、神を信じるとはそういうことだと思い込んでいる節がないでしょうか。誤解してはいないでしょうか。
 けれども、ここにもう一つ別の信仰が示されています。それは、サマリア人のように、主イエスの言葉を聞いて信じる信仰です。そして、カファルナウムの王の役人のように、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行く」(50節)信仰です。
 今日の聖書箇所では、しるしを見て信じる信仰と、御言葉を聞いて信じる信仰という、二つの信仰が対比されています。そして、主イエスが私たちに望んでおられるのは、明らかに、御言葉を聞いて信じる信仰です。それが今日のポイントです。

 さて、カファルナウムに、ガリラヤ地方を治めるヘロデ王の役人がいました。彼の息子が病気でした。日に日に症状が悪くなり、死にかかっていました。役人は気が気ではなかったに違いありません。
 そんな時、噂に聞く主イエスがガリラヤ地方に帰って来た、今、カナにおられるということを役人は耳にします。それを聞いた彼は、主イエスのもとに行き、息子を癒(いや)してください、と懇願します。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ‥‥」と言われる主イエスの言葉など聞いちゃいない。「主よ、子どもが死なないうちにおいでください」(49節)と、自分の願いを必死に訴えるのです。
 無理もないと思います。もし私も、自分の子どもが病気で、重傷だったら、医者に、どうか治してください、と必死に訴えるかも知れません。
 けれども、主イエスは、役人の必死の願いを退けます。そして言われます。
「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(50節)と。
 「帰りなさい」と言われた役人はどんなにがっかりしたことでしょう。自分たち親子は見放されたと絶望したかも知れません。あるいは、どうして来てくださらないのか、と怒りを覚えたかも知れません。
 それでも、彼は、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(50節)と書かれています。100%確信して、ということではなかったでしょう。「あなたの息子は生きる」と言われた主イエスの言葉にすがるようにして、絶望によろめいて倒れそうになる自分を、主イエスの言葉を杖にして支えながら帰って行ったのではないでしょうか。
 「帰りなさい」。私たちにも、帰ることが必要なのかも知れません。一度帰って、出直すことが必要なのかも知れません。最初、役人の信仰は一方的でした。主イエスの言葉など聞こうとしないほどに一方的でした。自分の願いを必死に訴えて、それが叶えられることだけを望むような自己中心的なものでした。それは、しるしを見て信じる信仰と同じ類のものです。
 そういう一方的な、自己中心的な信仰(願い)を持って、私たちは主イエスのもとに行きがちではないか。しかし、そこから一度帰って、出直すことが必要なのではないでしょうか。一方的に、自己中心的に、自分の言葉を主イエスに訴える信仰を持ち帰って、主イエスの言葉を聞く姿勢を持って出直す必要があるのではないでしょうか。そこから、神の言葉を聞いて生きる真の信仰が開けて来るように思うのです。

 役人は帰って行きました。主イエスの言葉を聞いて信じる信仰に据え直されました。それは言わば、自分の願いではなく、神が自分に何を願っておられるのか聞いて、それを自分の人生の土台に据える信仰です。自分の願いを願うことが悪いと言うのではありません。してはならないと言うのでもありません。自分が何かを願ったとして、しかし自分の願いではなく、神が自分の人生に何を起こされるかを期待する信仰です。
 その結果、自分の願ったとおりになったのなら、神の恵みに感謝です。また、自分の願ったとおりにならなかったとしても、神さまが最も良いことをしてくださった、良いものを与えてくださったと信じるなら、その恵みに慰められて、神さまの導きに感謝です。すぐには分からない、時間がかかる苦しみや悲しみがあります。けれども、いつかその恵みを悟ったなら、感謝が湧いて来るでしょう。いずれにしても、恵みに感謝。生かされている恵みに感謝。それが、主イエスの言葉を聞いて信じる信仰でありましょう。
 そして、御(み)言葉を聞いて信じる信仰によって、神の恵みを味わった人は、信仰が強められます。王の役人は、主イエスの言葉を信じて帰って行きました。信じたい。でも、半信半疑。すがるような信仰だったでしょう。
 ところが、帰る途中で、僕たちから、息子の病気が良くなったことを知らされ、その時刻が、主イエスが「あなたの息子は生きる」とお言葉をくださった時だと知ります。主イエスのしるしではなく、主イエスの言葉を信じて帰った。そして、その言葉がそのとおりになる恵みを味わったのです。その時、彼も彼の家族も信じたのです。御言葉の持つ力を味わったからです。どんな形であれ、信じた御言葉が実現した。神が応えてくださったと受け止めることができたら、私たちの信仰は強められます。それが、単に奇跡や癒しではなく、本当の意味で「しるし」を、御言葉によって起きるしるしを見る信仰なのです。

 改めて、今日のポイントは、しるしを見て信じる信仰ではなく、御言葉を聞いて信じる信仰だとお話しました。今日、主イエスが言われた言葉で、私の心にいちばん響いたのは、「あなたの息子は生きる」という御言葉でした。特に「生きる」と言われた言葉が強く心に響き、励まされました。
私たちは、神によって生きるのです。生かされるのです。死んでも生きるのです。今日の話の役人のように、自分の息子の病気が快方に向かい、生きられるようになることばかりが起きるわけではありません。現実は厳しい。自分の子どもが、愛する人が、また自分自身が病で死を迎えることも少なからずあるでしょう。それでも、「あなたの息子は生きる」と、“生きる”と言われる主イエスの言葉が、私の内に強く響いて来るのです。その言葉に、確かな人生の励ましが、希望と勇気を呼び起こす力があるように感じるのです。
そんな印象を感じておりましたら、ふと藤木正三牧師の〈神は生きている者の神である〉との説教を思い起こしました。「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(マタイ22章32節)との御言葉から、藤木先生はこう語られます。
 神さまは全てのものを生かしつつ神なのであり、それ以外ではないのです。この世的には死者というものがあっても、神さまの前では彼らもまた生きているのです。死んでいるものは何ひとつないのです。「神は死んだ者の神ではない」のですから、全てがそこでは生きているのです。生きてくるのです。輝いてくるのです。‥‥‥
 ですから、つまらぬ雑用も生きるのです。無駄と思える努力も生きるのです。空しく過ぎたと思える時間も生きるのです。踏みにじられた厚意も生きるのです。役に立たなかった準備も生きるのです。報いられなかった忍耐も生きるのです。はかなく潰(つい)えた希望も生きるのです。そうです。皆生きるのです。孤独も生きる、病気も生きる、不幸も生きる、悩みも生きる、痛みも生きる、罪さえも生きるのです。そのように全てを生かしてくださる力、それが聖書の神さまです。(『この光にふれたら』11〜12頁)
 「あなたの息子は生きる」と言われた主イエスの言葉に、私はたぶん、こういう全てを生かしてくださる神の力を感じたのだと思うのです。主イエスの言葉を信じる時、主イエスの言葉を通して神を信じる時、生きた意味のないものは一つもないのだ、という励ましと勇気を、私たちは与えられます。
 「あなたの息子は生きる」。最初は一方的で、自己中心的だった役人の信仰も無駄ではなく、生きるものになりました。神さまが生かしてくださいました。私たちも、どんなきっかけから信仰の道に入り、一方的であれ、自己中心的であれ、その信仰は決して無意味に終わることはありません。神さまが生かしてくださいます。一方的な、自己中心的な自分の信仰に気づかせてくださいます。そこから立ち帰る、悔い改めのチャンスをくださいます。神の言葉を聞き、神の御心(みこころ)を知り、神の御心が実現していることに目が開かれる時がきっと来ます。主イエスの言葉を聞いて信じ、全てを生かしてくださる神の恵みを受け止める信仰を求めて歩んでいきましょう。