2017年12月17日 待降節第3主日礼拝説教
  聖 書  ヨハネによる福音書1章1〜13節
  説教者  山岡 創牧師

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

「 初めに愛があった 」
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1節)。
ヨハネによる福音書は、この一句から始まります。何か哲学っぽくって、ちょっと難しそう。そう思うと、私たちの右の耳から左の耳へ抜けてしまいそうな、頭の上を風のように通り過ぎてしまいそうな言葉です。私の人生には関係ない。そんなふうに思ってしまいそうです。
確かに、そう感じたとしても不思議ではありません。でも、果たしてそうでしょうか?私たちの人生には何の関係もない言葉でしょうか?そうでもないかも‥‥説教の準備をしながら、私はそう思いました。
初めに○○があった。さて、皆さんなら○○の部分に何を入れますか?‥‥と聞かれると、さて何だろう?とけっこう考えさせられると思います。でも、これって理屈で考えても、哲学的に考えても、答えが出るものでもありません。むしろ直感だと思います。世の中には、“初めに金があった”なんて答える人もいるかも知れません。そこに私たちの価値観が出る。人生観が出る。だから、初めにあるものは何か?と考えることは、私たちは何者なのか?なぜ生きているのか?生きていることに意味はあるのか?という人生の答えに直結しているのです。私たちの人生に関係ないどころか、大ありだ、ものすごく大切なことだ、と思うのです。

 「初めに言があった」。何だか聖書の別の箇所の書き始めと似ているなあ、と思った方もおられるでしょう。そうです。旧約聖書の最初にある創世記の冒頭と似ています。「初めに、神は天地を創造された」(1章1節)。創世記はこの言葉で始まります。つまり、創世記の著者は、“初めに神の天地創造があった”と考えたのです。しかも、神さまが創造の第一日目に造ったものは「光」でした。そして、二日目に天と地を造ったと書いています。この光、私たちが普通に考える太陽の光ではありません。太陽は四日目に造られています。だから、全く違う意味の光です。違う意味を込めて著者が書いたのです。私は、今日読んだヨハネ福音書(ふくいんしょ)1章にある「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」(4〜5節)に似ているなあ、と思うのです。
 創世記が書かれたのは、バビロン捕囚と呼ばれる時代でした。紀元前6世紀に、イスラエルの人々はバビロニア帝国に侵略され、国を滅ぼされます。多くの人々が捕虜としてバビロニアに連れて行かれ、強制的に移住させられました。そこで、イスラエルの人々はバビロニアの文化文明を見ます。軍事力で圧倒され、バビロニアでその建築物と宗教を見て、更に圧倒されます。そのために、自分たちは何だったのか?と、自分たちの存在とその意味が消し飛んでしまいそうな不安を感じたのです。
 その時、イスラエルの人々を精神的に支えたものこそ、「初めに、神は天地を創造された」という言葉でした。どんなにバビロニアが強大に見え、自分たちが小さく見えようとも、この天地をお造りになったのは我々の信じる神だ、この天地を支配しておられるのは我々の信じる神だ。バビロニアではない。バビロニアの神々ではない。そして、その神の支配の中で、自分たちは神に生かされている。その思いが、彼らの希望の光となりました。だから、創世記の著者は、最初に神は光を造ったと書いたのです。神の天地創造、そしてその支配こそ、我々の希望の光なのだと、人々に訴えたのです。その言葉こそ、イスラエルの人々を支え、自分たちは何者なのかという答えとなったのです。
 それから数百年後、イスラエルの信仰を受け継ぎ、イエスを救い主キリストと信じたクリスチャンたちも、ローマ帝国に迫害され、教会を滅ぼされそうになっていました。けれども、その苦しみと不安の中で、彼らは、初めにあるものは何かを考えたのです。
 初めにあるもの、彼らにとってそれは「言(ことば)」でした。「万物は言によって成った」(3節)と彼らは考えました。「言は神であった」(2節)と信じました。そして、その言が人の姿となって、自分たちのところに来てくださった。その方こそイエス・キリストだと彼らは信じたのです。つまり、神は言であり、言はイエス・キリストとなった。この方こそ、天地を造り、支配し、私たちを生かしておられる方だと信じたのです。私たちの価値観、人生観の土台となり、自分は何者なのか、生きている意味は何かという答えを与える方だと信じたのです。

 「初めに言があった」。ところで、「言」といっても、その意味は、私たちがコミュニケーションを取るための、いわゆる“言葉”という意味ではありません。「言」と訳された元々の言葉は、ロゴスというギリシア語です。例えば、ロゴスには“知恵”という意味もありました。当時ギリシア・ローマの文化の中で生きていた人々は、万物は変化しながら進んでいくと考え、それはでたらめに起こっているのではなく、その背後に秩序があるのだと考えていました。そういう秩序を与え、宇宙全体を動かし支配しているのがロゴスだと考えたのです。ロゴスは、この世界の源であり、秩序を保っている原理であり、宇宙の知恵でした。
 そのロゴスを、口語訳聖書と新共同訳聖書は、「言」と訳しました。新改訳聖書は「ことば」と訳しました。たぶん創世記の神の天地創造において、神が言葉によって命じて天地が造られたという内容が影響しているのだろうと思われます。そう言っては怒られそうですが、かえって分かりにくい訳だなあと感じます。
 ロゴスとは何でしょうか?私たちが考える時に、必ずしも理論的に、言葉の意味で正確に考える必要はないと、私は思うのです。最初にも言いましたが、初めに○○があったと考えることは、そこに私たちの価値観が出る。人生観が出る。私たちは何者なのか?なぜ生きているのか?生きていることに意味はあるのか?という人生の答えに直結しているのです。そういう方向で、聖書的に考えたらいいと思うのです。
 そんなふうに考えた時、私は、ロゴスを“愛”と考えてもよいのではないかと思いました。もちろん聖書の中には、“愛”と訳される別のギリシア語があります。けれども、敢えて「初めに愛があった」と訳してもよいのではないか。「愛は神と共にあった。愛は神であった。この愛は初めに神と共にあった。万物は愛によって成った」。そう訳してもよいのではないか。むしろ、私には、それがとてもしっくりと来るのです。
 主イエス・キリストは、ヨハネによる福音書の中で、それまでの神の掟を一言にまとめ、新しい掟として、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)と弟子たちに教えました。また、ヨハネによる福音書の流れを汲むヨハネの手紙(一)は、「神は愛です」(4章16節)と繰り返し語っています。そういう内容、流からすれば、「初めに愛があった」と考えることは、あながち間違ってはいない。むしろ、究極的にはそういうことではないか、とさえ感じるのです。世界を世界たらしめているもの、人間を人間たらしめているもの。私たちを私たちたらしめているもの、それは愛だと私は信じるのです。
 ところで、ご年配の方は、欅坂46というアイドル・グループをご存じでしょうか?このグループが歌っている曲に〈世界には愛しかない〉という歌があります。
  世界には愛しかない。信じるのはそれだけだ。
今すぐ僕は君を探しにいこう。だれに反対されても、心の向きは変えられない。
それが、僕のアイデンティティー。
 さびの部分で、こう歌います。初めに愛があった、という思いから、私はこの曲を連想しました。もちろん聖書的な意味とはちょっと違うでしょうが、良い歌詞、良い言葉だと思います。初めに愛があった。世界は愛で成っている。愛を信じる。それが、私たちクリスチャンのアイデンティティーでありましょう。

 初めに愛があった。初めに何があったかを考えることは、自分のアイデンティティーを、自分という存在と人生の意味を考えることです。それを、もう一つ別の言い方で表現するならば、“人生でいちばん大切なもの”を考えることだと言ってよいのではないかと思います。人生でいちばん大切なものは何でしょうか?
カトリックの司祭で井上洋治さんという方がいます。この方がある時、“人生で一番大切なもの”というテーマで原稿を書いてほしいと、ある出版社から頼まれました。そこで井上先生はあれこれとお考えになったわけですが、そんな時、一通の手紙が舞い込みました。見ず知らずの若い女性からの手紙で、交通事故を起こしてしまい、顔に大やけどを負った。それ以来、苦しみの連続で、これでは結婚もできない、もう死んでしまいたいというような内容の手紙でした。その手紙を読んだ時、井上先生はハッします。
  私たちは、健康にしろ財産にしろ友情にしろ家庭にしろ、たくさんそういう大切なものを持って、またそういった大切なものにささえられて生きているわけですけれども、いざそういうものを失ってしまったときに、価値ある大切なものを失って色あせてしまったときに、その色あせ挫折してしまった自分を受け入れることができる心というもの、それが考えてみれば人生で一番大切なものではないかと思ったのです。
(『人はなぜ生きるか』9頁)
 井上先生は、そのようにお書きになったそうです。そして、そのように自分を受け入れる心を私たちに持たせるものは、逆主体的段階の生き方だと言われます。その内容を簡単に言えば、“自分が”生きているのではなく、生かされているということ。“神さまが”自分を愛し、愛によって生かしてくださっている、という信仰だということです。
初めに愛があった。神の愛があった。この思いがなければ、色あせた自分を受け入れる心というものは生まれない。神さまに愛されているということに価値を見いだしているからこそ、愛に自分のアイデンティティーを置いているからこそ、持つことのできる心だと思います。私たちの命を生かす、愛という光に照らされているからこそ、持てる心だと思うのです。

 初めにあるものは何か?人生でいちばん大切なものは何か?自分の価値観、人生観の土台となり、自分は何者であるか、なぜ生きているのか、人生に意味はあるのかという問いに答えを与えるものは何か?
 私たちは、自分の人生がうまく行っている時には、そんなことはほとんど考えません。何の意識も持たずに過ごしています。聖書の言葉など聞く耳を持たず、受け入れません。私自身の経験から考えても、そういうものだと思います。
けれども、うまく行かなくなった時、挫折した時、壁にぶつかった時、苦しみや悲しみを抱えた時、迷った時、私たちは、自分が何者であるかを、自分という存在の意味を、人生の意味を考えさせられます。
その時、私たちは、「初めに言があった」、初めに“愛”があった、という御(み)言葉を、大きなヒントとして与えられます。それを受け入れるならば、「神の子となる資格」(12節)が与えられます。決して偉そうな資格ではありません。自分の力でつかんだのでもありません。初めに愛があったと、私は神さまに愛され、生かされていると信じた人の心に生まれる「恵み」以外の何ものでもありません。
 初めに愛があった。この神さまからの大きなプレゼントを、このクリスマスに、受け入れましょう。愛を信じ、愛を追い求める。それが私たちクリスチャンのアイデンティティーです。