2017年12月24日 待降節第4主日クリスマス礼拝説教
  聖 書 ヨハネによる福音書1章14〜18節
  説教者  山岡 創牧師

1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。


「 愛が人となった 」
 「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)。そのまま読むと、何だか難しそうな内容です。この14節を、私が訳すと、こうなります。“愛はイエス・キリストとなって、わたしたちを愛された”。
 先週の礼拝説教で、直前の1〜13節をお話しました。「言」と訳されているのはロゴスというギリシア語です。ロゴスは、宇宙と万物全体を調和させ、その秩序を保つ原理であり、宇宙の知恵でした。それを、キリスト教的に解釈すると、神の言、神が初めに天地を創造された時に、共に存在した神の言(ことば)ということになります。
 私は、このロゴスを“愛”と訳すと、とてもしっくりすると、先週お話しました。「初めに言があった」(1節)という一節を、初めに愛があった、と捉え、訳すのです。理屈や理論ではありません。初めにあるものは何か?を考えることは、私たちの価値観、人生観、世界観、アイデンティティー、人生の意味、そして生き方に大きく関わっています。だからこそ、私は、聖書の内容を受け止めるクリスチャンとして、初めに愛があった、と訳したい。初めに愛があった。愛は神と共にあった。愛は神であった。この愛は、初めに神と共にあった。万物は愛によって成った。成ったもので、愛によらずに成ったものは何一つなかった。愛の内に命があった‥‥。このように読みたいのです。それは、聖書的に考えて、決して間違いではありません。
 そして、この愛が人となって、私たちの世界においでになった。それがイエス・キリストだ。イエス・キリストの誕生の意味だ。ヨハネによる福音書は、そのように語っているのです。

 イエス・キリストは、神の愛として、わたしたちの間に愛を届けるために、この世に来てくださいました。人を生かす希望の光としてくださいました。その光は「恵みと真理とに満ちていた」(14節)とあります。では、「恵みと真理」とは何でしょうか?17節にも、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」と書かれています。この言葉から連想する主イエスのエピソードがあります。ヨハネによる福音書8章の話です。
 主イエスがエルサレム神殿の境内で、ユダヤ人の民衆に教えておられると、ユダヤ人のファリサイ派や、その宗派の律法学者たちが、姦通の現行犯で捕まった女を、主イエスの前に連れて来ました。遊女として売春をしていたのかも知れません。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(8章4節)。彼らは主イエスに訴え、問いかけました。決して素直な質問ではありません。その答えから、主イエスを陥れる口実を得ようとしていたのです。
 ここに、モーセを通して与えられた「律法」が出て来ました。神が人に命じた、人として守るべき掟です。その中に姦通罪の規定がありました。特に人妻の性行為や人の道から外れた性行為は、大罪として石打ちの刑と定められていました。
 ユダヤ人、特にファリサイ派の人々と律法学者は、律法を重んじました。律法に定められていることを“正義”として社会に徹底しようとしました。律法を守れない、正義を行えない人を、神さまに見捨てられたダメ人間、罪人として裁きました。
今日の説教の冒頭で、初めに愛があった、という内容をお話しました。初めに何があるかを考えることは、私たちの価値観や生き方の土台となります。そういう意味で言えば、彼らの場合、初めに律法があった、初めに正義があった、と考えていると言うことができます。律法を重んじ、律法の正義を守る。それが彼らのアイデンティティーです。
けれども、主イエスは違いました。「どうお考えになりますか」としつこく迫る彼らに、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)と言われました。こう言われて、彼らは押し黙りました。そして一人去り、二人去り、すべての人が、女に石を投げず、主イエスを非難せずに去って行きました。
主イエスの一言によって、彼らは、自分自身を見つめ直すように意識させられました。自分自身に、律法を破りながら、隠していることがあったのかも知れません。表面的には律法を破っていなくても、心の中で破っている思いがあったのかも知れません。主イエスは、人の外側ではなく、人の内側に、私たちの目を向けさせるのです。
主イエスご自身が、そういう目で人を見ておられます。姦通を犯した女性の表面的な行い自体はよくありませんし、律法に照らせば石打の刑ということになります。けれども、主イエスは単純に姦通の行為を見るのではなく、どうしてそうしたのか、という事情に、その人の心の内に目を向けておられるのです。当時の社会において女性は弱い立場でした。もしかしたら、この女は、そうしなければ生活していけない、生きていけないという苦しい立場に置かれていたのかも知れません。そして、そういう自分の人生を辛く感じ、悲しんでいたかも知れません。そう思っても、なかなか自分の生き方を変えられなかったのかも知れません。そこに主イエスは心の目を向けるのです。
すべての人が去って行った後で、主イエスは、女に言われます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。‥‥」(8章11節)。表面的に見れば、この女性は姦通罪に定められ、石打ちの刑にされるところです。けれども、主イエスは単純に裁かない。表面で判断しない。その人の心の内に目を注ぐ。裁かずに受け止める。赦(ゆる)して立ち直らせる。それは愛のなせる業です。初めに“愛”があった、と考えておられるからです。その愛を勇気をもって実践される方だからです。まさに神の愛が人となった方だからです。
この主イエスの扱い、そして言葉は、この女性にとって「恵み」でした。姦通の現場で捕まって、自分は罪に定められる、もしかしたら石打ちの刑にされる、と怯(おび)えていたに違いありません。ところが、思いがけず受け止められ、赦され、解き放たれた。それは、自分の償(つぐな)いや善い行いによって勝ち取ったものではなく、無償の愛によって与えられた喜びです。それは、「恵み」です。「恵み」と呼ぶ以外にない、私たち人間の命を包む暖かさです。
人は神に愛されている。以前にもお話しましたが、それが主イエスの示された「真理」です。理屈抜きの「真理」です。主イエスご自身がこの愛を知っている。深い苦しみの中で、悲しみの中で、神の愛を体験されたと思うのです。苦しみ、悲しみの中にあっても、人は神に愛されている。神の愛に包まれて、生かされている。その恵みを味わわれたからこそ、愛を伝えようとする。身をもって人を愛することで、神の愛を、神の真理を伝えようとされるのです。
 「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と言われるとき、それはこのエピソードのようなことだと思うのです。とても具体的な形で表わされるのです。そして、私たちの人生にも、この「恵みと真理」は現われるのです。聖書を読み、イエス・キリストを信じ、教会に関わり、信仰の兄弟姉妹と交わりを持つ中で、初めに“愛”があった、ということが分かってくる。人生でいちばん大切なものは愛だと分かってくる。自分が神と人に愛されていることが分かってくる。理屈抜きに分かってくる。聖霊(せいれい)なる神さまが私たちの心の内で働いて、分かってくる。その時、私たちは、愛はイエス・キリストとなって、私たちを愛されたと告白し、証言する者となる。イエス・キリストは、神を示された「独り子である神」(18節)だと、私の救い主だと告白し、証しする人に変えられるのです。

 今日の聖書の箇所に、イエス・キリストを証しする人として、ヨハネという人物が出て来ました。イエス・キリストの愛を証しする。愛によって届けられた「恵みと真理」を証しする。そういう人物としてヨハネは1章に描かれています。私たちもまた、イエス・キリストを通して神の愛を信じたなら、「恵みと真理」を味わったのなら、ヨハネのように愛を証しすることが期待されているのではないでしょうか。
 ちょっと話は変わりますが、インターネットでクリスマスの関連記事を検索していた時に、〈Yahoo知恵袋〉というサイトで、サンタさんはいると信じている小6の女の子が“どうしてサンタさんが空を飛んでいる動画がないのか?”という質問が投稿されているのを見つけました。単純に言えば“サンタさんはいるの?”という問いかけです。皆さんならどう答えますか?
 その質問に対してベスト・アンサーに選ばれた人の回答は、こう答えています。
サンタはいます。正確には初代サンタクロースではなく何代目かのサンタなんですが細かい話は置いといてとりあえずサンタはいます。ただ最近の場合プレゼントにサンタが直接は関わっていない事も多いです。昔のようにサンタさんがおもちゃを作り、運び、配っていた時代とは変わりました。
こう言って、この方は、サンタが玄関でその子の親にプレゼントを渡して枕元に置いてもらうとか、子どもが何を欲しいかというニードに合わせて、“サンタさんができないなら私たちが代わりますよ”とプレゼントとなる物を作ったり、運んだ入りする人が出て来たといいます。そして、この方はこう書いています。
一人のサンタが全てを行うのではなく、力の小さいサンタ役の人がちょっとずつ役割分担しているわけですね。
 ただ言えるのは、今サンタの代わりにプレゼントを作っている人も「このプレゼントを受け取った人が幸せになるといいな」と思いながら作り、運んでいる人も「このプレゼントを受け取った人が幸せになるといいな」と思いながら運び、枕元に置く人もあなたの幸せを願って置いているんです。サンタクロース一人だけがあなたの幸せを願っているのではなく、他にもとてもたくさんたくさんの人が子ども達の幸せを願っているからこそ枕元にプレゼントが届くのです。それはとてもとても素晴らしい事ですよ。ほんとに。
そして、最後にこう加えています。
 あと、あなたも将来こうした「サンタの代わり」を担うことがあるかもしれません。「人に幸せを与える側」に参加できるというのは、これもまたとても素晴らしい事なので機会があったらぜひどうぞ。
賛否両論あるでしょうが、感動したというレスポンスも多く寄せられています。“サンタなんて信じないと言っていた自分、バカだったわ。サンタいるわ!”と書きこんでいる若者もいました。
 私は、この記事を読みながら、ふと、私たちがヨハネのように愛を証しするということは、“イエス・キリストの代わり”を担うことではないかと感じました。“愛を受け取った人が幸せになるといいな”と思いながら、小さな愛を届ける。神さまに愛されていることを信じ、感じている者が、だれかを愛することで神の愛を証しする。それが、このクリスマスに、愛が人となってお生まれになったイエス・キリストの願いだと思うのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)と言われるイエス・キリストの願いだと思うのです。
 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。愛は人となって、イエス・キリストとなって、私たちを愛してくださいました。私たちもイエス・キリストを通して神の愛を受け取り、愛を届ける人として歩んで行きたいと思います。それがクリスチャンのアイデンティティーです。