2017年12月31日 大人と子どもの礼拝説教
  聖 書 マタイによる福音書2章1〜12節
  説教者  山岡 創牧師

2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。



「 別の道を通って 」
 教会の暦では1月6日までクリスマス・シーズンです。その日は〈公現日〉と言って、クリスマスにお生まれになったイエス様を、東からやって来た占星術の学者たちが見つけ、礼拝した日だと言われています。つまり、今日読んだ聖書の出来事が起こった日です。学者たちは、ベツレヘムでイエス様を見つけ、礼拝し、宝物をささげ、別の道を通って自分たちの国へ帰って行きます。今日、私は、「道」ということを中心にお話し、皆さんと考えてみたいと思います。

皆さんは迷子になったことがありますか?私は、子どもの頃、迷子になった記憶はないのですが、大人(20代)になってから迷子になったことがあります。東京の八王子まで行って、車で帰る途中のことです。近道をしようと思って、大きな道路から外れて、小さな道を走っていたら、田圃(たんぼ)のような場所に出ました。夜だったので方角も分からず、そういう場所なので道案内の青い看板もなく、やがて自分が東に向かっているのか、西に向かっているのか、北に進んでいるのか、南に進んでいるのかも分からなくなりました。心細く、冷や汗をかきました。
 占星術の学者たちも迷子になりました。彼らは星を調べていて、イエス様のお生まれ、ユダヤ人の新しい王のお生まれを知ります。そこで、その王様とお目にかかり、拝もうと考え、その星を道案内にして自分たちの国を出発します。ところが、学者たちは途中で道に迷ってしまいます。そのため仕方なくユダヤの都エルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」(2節)と聞いて回りました。
 学者たちはどうして迷子になってしまったのでしょう?天気が悪くなって、道案内の星が見えなくなってしまったのでしょうか。そうかも知れません。知らない道を行く時、何か道案内になるものがないと私たちは道に迷います。今はナビという道案内があるので、とても便利な時代になったなぁ、と感じます。
 ところで、「道」を、人の“人生の道”と考えてみてください。占星術の学者たちが道に迷ったことは、彼らが、自分の人生の道に迷っていたことを表わしている、と私は考えます。それは、彼らがまだ、イエス・キリストと出会っていなかったからです。信じていなかったからです。つまり、人生という道を歩く上で、道案内となって導いてくれる何かを、また土台となって支えてくれる何かを持っていなかったからです。だから、学者たちは、人生の道に迷っていた、自分の生き方に迷っていたのだと思うのです。
 留学や仕事で、海外で長い間生活していると、“あなたの宗教は何ですか?”と聞かれることが多いそうです。そして、日本人は特定の宗教を信じていない人が多いので、“何もありません”と答えると、とても驚かれると言います。何か宗教を信じていることが当たり前の外国の人々からすれば、何も信じていない日本人の生き方に驚きを感じるのです。それは、“何も宗教を信じていないのは、おかしい”という驚きではなく、“何も信じているものがなくて、あなたはだいじょうぶ?難しい問題や苦しみ悩みにぶつかった時はどうするの?”という驚きであり、心配なのだと思います。つまり、“あなたは何も信じていなくて迷わないの?”という驚きであり、心配です。
 私も、10年以上前に、まだここに移る前の古い会堂だった時代に、一人の方が悩みを相談しに来たことがありました。どんな話だったか、もう覚えていませんが、ただその時受けた印象は鮮明に覚えています。それは、信じるものを持っていない人は、こんなにも迷うのか、という驚きでした。
 信じるものを持っていない人は迷います。もちろん、神さまを信じている人は全く迷わない、というわけではありません。けれども、迷い方が違う。信じるものがあって、人生の土台があって迷うのと、なくて迷うのでは、行き着く先が全く違って来るのです。占星術の学者たちが迷子になったのは、私たちの姿を映し出しているのです。

 学者たちは道に迷いました。エルサレムに行って尋ねました。そこで、彼らは聖書の言葉にヒントを与えられます。聖書の言葉に導かれて、救い主イエス・キリストを見つけることができた。イエス・キリストを通して、“あなたは愛されている”という真理と出会うことができたのです。その時から、彼らの道は変わりました。
 イエス様を礼拝し、宝をささげて、学者たちは自分たちの国へ帰って行きました。「別の道を通って」(12節)帰って行きました。それは、表面的な意味で言えば、エルサレムに戻らなかった、ヘロデ王のもとに戻らなかったということです。夢のお告げで、ヘロデ王の悪だくみを知ったからです。
 けれども、“人生の道”ということで考えてみると、学者たちは、自分の生き方を変えた、変えられたのだと思うのです。信じるもののない、人生の道案内も土台もない生き方から、イエス・キリストを信じ、神の愛によって導かれ、支えられる生き方に変えられたのです。
 話は変わりますが、我が家の次男・Mが、普段は新潟市にある敬和学園高校で生活しています。敬和学園は“自分探しの学校”と言われます。それは、自分の人の道を探すこと、信じられる大切なものを探すことだと言ってよいでしょう。
 校長である小西二巳夫先生が、2009年に母校の同志社大学の礼拝でお話をされた説教の中で、一人の女子学生が卒業文集の中に書いた内容を紹介して、彼女の変化をお話されています。この学生はこう書いています。
(大学)入試の面接で三年間の欠席日数について尋ねられたので、中学でのいじめと不登校の経験を交えた理由を正直に話し、敬和生活のなかで変化していった気持ちも話した。すると面接官から『乗り越えたんですね』と言われた。
中学生のときから関心があったのは成績だった。学校のテストが何点、成績表に五は何個、四は何個だった。塾での模試でも偏差値はいくつだ、順位はどうだ。そんなことしか考えてなかった。だから敬和に入学した当初は驚きと戸惑いの連続だった。まず驚いたことは、他の高校より生徒の成績の幅が広いことだ。中学校の数学、英語ができない、漢字が読めない。私は信じられなかった。同じ高校生とは思えなかった。
 次に驚いたことは、敬和の定期テストの結果表の出し方だった。一〇〇点取れば偏差値も一〇〇。そして授業を上級、中級、基礎と分け、テストも違ったものを受けさせているにもかかわらず、順位の出し方はレベルに関係なく、点数のみで同じ土俵で比べる。基礎で一〇〇点取れば、上級で九十九点取るより上扱いである。悔しさのあまり何度泣きながら担任に訴えたことか・・・‥
しかし今の私は変わった。敬和の三年間が私にさまざまなことを教えてくれた。数学が苦手でも英語が得意、勉強ができなくても体操選手並みにスポーツ万能、いつも笑顔で誰にでも優しい、廊下のごみを拾える。多種多様な人がいることを知った。友達を尊敬するようになった。私の人に対する見方と自分自身に対する見方が変わった。学力でしか人を判断できなかった自分が恥ずかしくなった。テストへの意欲も人と比べることより、自分を向上させようと思うようになったら順位や偏差値は気にならなくなった。少し自分が成長した気がした。敬和は普通の学校ではない。キャラの濃い生徒が多い。卒業生はいつまでも遊びに来る。受験生に模試を強制しない。授業中に海に行く。朝、どんなにバスが遅れても授業時間を削って礼拝を優先する。他校の生徒には通用しない授業や行事が多い。書き出したらきりがない。私立のくせになんか地味だし(笑)。敬和に入学したことを後悔した時期もあった。しかし、今では敬和が好きだ。敬和で出会ったたくさんの友だち、先生、経験、今まで知らなかった自分が好きだ。
 敬和に入学したこと、卒業することを誇りに思う。これがわたしの『乗り越えた』事だったのかもしれない。
 小西先生は、この学生の変化について、敬和学園で、聖書を通して、イエス・キリストによって価値観が変わったからだ、存在価値という大切なものを知ったからだと言います。“私は神さまに愛されている存在だから、肯定されている存在だから、自分は自分で良い、自分らしくて良い”ということを知ったからだと言います。そして、自分だけではなく、周りの人の“その人らしさ”も受け入れて、愛することができるようになったからだと書いておられます。道が変わったのです。生き方が変わったのです。変えられたのです。
 この学生の子は、自分の最大の関心事であった学力、成績とは別の価値観を知りました。それは自分が大切にしてきた学力や成績、言わば自分にとって「宝」だったものを手放して、別の宝を、大切なものを見つけた、ということではないでしょうか。学者たちが「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(11節)ということには、そういう意味があるのではないか、自分が今まで持っていた価値観を手放す、という意味があるのではないかと私は思うのです。
 イエス・キリストと出会い、神さまから愛されていることを知り、信じるようになると、“愛”が私たちの人生の土台(価値観)となります。道案内となります。そして、自分を愛し、人を愛する者へと変えられます。そのような道を歩いて、私たちも「自分の国」(12節)へ帰るのです。自分が神さまに遣わされ、置かれた場所で、職場で、学校で、家庭で、その道を歩くのです。日曜日だけ、教会でだけ歩くのではなく、平日も、社会においても歩くのです。この世の価値観や常識、人間関係においては、ストレートに通じないことが多々あるでしょう。けれども、意識を持つこと、そしてどうすることが「別の道」を歩いていることになるだろうかと考えながら生きるのです。
 さあ、このクリスマスから、私たちも、信じるものを持って、別の道へと、愛の道へと、新たに、改めて出発して行きましょう。