2018年1月14日 主日礼拝説教
  聖 書 ヨハネによる福音書5章9〜18節
  説教者  山岡 創牧師

5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

「 だから、わたしも働く 」
 「起き上がりなさい。床(とこ)を担(かつ)いで歩きなさい」(8節)。
 38年間も病を患い、ベトザタの池のほとりでうずくまっていた人が、主イエスから、このように言葉をかけられて、起き上がり、歩き始めました。どんなに嬉しい気持であったか、想像はしてみても、とても語れません。彼は、エルサレムの外壁の外にあるベトザタの池を離れ、街中に入り、床を担いで歩きながら、自分の家を目指していたかも知れません。ところが、その様子が「ユダヤ人」(9節)の目に留まりました。
 その日は「安息日」(9節)でした。安息日はユダヤ人にとって、特別な日です。ただ単に“休みの日”というだけではありません。ユダヤ人の「律法」(10節)、十戒の中で安息日は次のように定められています。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。‥‥‥六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8〜11節)
 安息日の掟は、主なる神さまの天地創造の業(わざ)に基づいています。旧約聖書のはじめ、創世記1章に、神の天地創造物語が描かれていますので、ご存じない方は後で、参考に読んでみてください。神さまは六日間で天地を造り、七日目に休まれたので、神さまに造られた人間も、それに倣(なら)って休む。いっさい仕事をしない。家事もせず、歩くこともせずに、休むのです。けれども、単に休むのではありません。この日に、神さまの天地創造の働きをたたえ、賛美し、栄光を神さまに帰すのです。だから、人々はシナゴーグと呼ばれる会堂に集まり、集会(礼拝)を開きました。そこまで歩くことは許されていたのです。
 この安息日の定めからすれば、その日に床を担いで歩くことは違反でした。だから、ユダヤ人は彼を咎(とが)めました。彼も、思いがけず病が癒(いや)されて、浮き浮きして、その日が安息日だということをすっかり忘れていたのでしょう。彼が床を担いで歩いているのを見たユダヤ人は皆、違和感を感じたでしょうが、彼を直接咎めたのは、ユダヤ人の中でも律法を重んじるファリサイ派か、その指導者である律法学者だったと思われます。

 ユダヤ人に咎められて、彼は初めて、その日が安息日であることにハッと気づいたのかも知れません。しかし、そこで彼は素直に、申し訳ありませんと謝りませんでした。責められているという気持から自分を守ろうという本能が働き、それが責任転嫁の形になってしまったのでしょう。「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」(11節)。怪(け)しからん、それはだれだ?と尋問されて、しかし彼は答えることができませんでした。主イエスは立ち去って、その場にはおらず、彼も自分を癒してくださったのはだれか、尋ねることを忘れていたからです。
 その後、彼は神殿の境内(けいだい)で、再び主イエスに出会います。主イエスの方から再び近づいてくださったと言ってよいでしょう。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」(14節)。主イエスは彼に言われました。彼は、自分を癒してくださったのが、主イエスだと知ります。
 この時は、彼が主イエスと、人格的に、信仰的に関係を持つチャンスでした。だれに癒されたかも分からないような名もなき癒しが、主イエスへの感謝と信仰に変わるチャンスでした。起き上がり、床を担いで歩くということの本当の意味を知り、その意味を自分の人生の内側で深く掘り下げるチャンスでした。けれども、彼はそのチャンスを棒に振ってしまいます。彼は主イエスに感謝し、深く関わろうとするよりも、主イエスのもとから立ち去り、「自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせ」(15節)たのです。ユダヤ人社会で生きていくために、自分を守るために、そうしたのでしょう。

 ところで、起き上がり、床を担いで歩くとはどういうことでしょうか?私は、ただ単に病気が治って、起き上がって生活できるようになることだとは思いません。神さまを信じれば病気が治る。それは、私たちの切なる願いかも知れません。しかし、生きることは、そんなに自分に都合のよいことではないと私たちは知っています。そういう不都合な人生をどう生きるか。その点に信仰は最も関わってくるのです。
 私たちの人生には、床に担がれて生きる生き方と、床を担いで生きる生き方があると思います。前者は、「床」に象徴される病をはじめ、人生の出来事に縛られ、支配される生き方です。人生の出来事に不都合、不幸、苦しみだけを感じ、ネガティブになり、他人や社会を呪って、捕らわれない自由な心で、ポジティブな意味を見出し、感謝して、勇気を持って生きることができない生き方です。それに対して、床を担いで生きるとは、人生の出来事に縛られず、支配されない生き方です。目の前の病や困難な出来事に心を囚われず、その裏に隠れている意味を見つけたり、将来につながる可能性に希望を抱いたりして、感謝して、勇気を持って生きる生き方です。つまり、病や困難な出来事が人生の主役ではなく、自分が人生の主役として生きることです。人生を本当の意味で主体的に生きることです。不幸か幸せか、呪いか感謝か、それは自分が決めるのです。
 そのように色々なことが起こる人生に意味を見つけ、希望を見出す。つまり、人生を信じるために、人生の目に見えないものを信じるのです。それによって支えられ、導かれて生きられることを信じるのです。すなわち、主イエスを通して、父である神に愛されて、生かされて、最善の道を歩いていると信じるのです。あなたにはきっと、それができる!勇気を持て!そういう生き方に、信仰に、主イエスは、この人を、そして私たちを招いておられるのです。
 床に担がれるのではなく、床を担いで生きる。星野富弘さんのことを思い起こしました。ご存じの方も多いと思います。星野さんは、群馬県で高校の体育の教員をしていましたが、24歳の時、器械体操の着地に失敗し、首の骨を折り、首から下が全く動かなくなってしまいました。病院で入院生活を送りながら、“今日は天気がいいなぁ。ちきしょう”“ちきしょう。腹が減った”“今朝は気分がいいなぁ。ちきしょう”と、二言目には“ちきしょう”と無意識に、人生を呪い、この世を呪って生きていたのです。無理もないと思います。けれども、看護師さんに言われて、初めてそういう自分に気づき、呪いや不安、さびしさを抱えている自分を見つめるようになります。そして、訪ねてくれた牧師やクリスチャンの看護師を通して聖書と出会います。「疲れた者、重荷を負うものはだれでも、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)。この御(み)言葉に、人を心の底から慰めることができるのは、人ではなく神だということを感じて、やがて信じて洗礼を受け、クリスチャンになります。口に絵筆をくわえ、草花と詩を描く、ポジティブな、感謝と勇気の生活が始まるのです。その変化が、星野富弘さんの次の詩に現れていると感じます。
   何のために生きているのだろう。何を喜びとしたらよいのだろう。
   これからどうなるのだろう。
   その時、私の横に、あなたが一枝の花を置いてくれた。
   力を抜いて、重みのままに咲いている、美しい花だった。
(『鈴の鳴る道』より)
 障がいという困難な出来事に囚われ、支配されていた心から、“あなた”を、すなわち神さまを信じて、障がいを受け入れ、自由に、主体的に、咲くように生きようとする星野さんの思いが伝わって来ます。

 私たちの人生は、その土台に、どんな大切なものを持って生きているか、何を信じて生きるか、それによって大きく変わって来ます。そして、主イエスが大切なものとして、信ずべきものとして、私たちに提供するのは、“神の愛”です。私たちは一人ひとり、神さまに愛されて生きている、という人生の真理、命の恵みです。だから、主イエスは、神を、ご自分を愛する「父」(18節)と呼ぶのです。私たちも、神さまが私たちのことを“親”のように愛してくださると信じるから、「父」と呼ぶのです。
 主イエスは、安息日違反だと言って、ご自分を迫害するユダヤ人たちに言われました。
「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(17節)。
 ユダヤ人たちは、神は天地創造において六日間働き、七日目には休んだと信じています。だから、安息日は休め、休まなければならないと言います。けれども、主イエスは、神は天地創造からこのかた、今もなお働いておられると言います。安息日にも働いておられる、と言います。この決定的な違いはどこから来るのでしょうか?それは、“罪”についての理解の違いではないかと思います。ユダヤ人は、自分たちは律法を守っているから罪はないと考えています。けれども、主イエスは、この造られた世界も、人間も、今もなお罪の中を生きている、と考えているのだと思います。
 安息日のことを説明する時に、天地創造のことをお話しました。天地創造において、最初に造られた人間はアダムとエヴァでした。けれども、二人はエデンの園で、食べてはいけないと命じられていた木の実を食べてしまいます。そして、神さまからその理由を問われた時、素直に謝らずに、女のせいだ、へびのせいだと責任転嫁をします。今日の聖書の中に出て来た彼と同じです。その時以来、神さまと人とがすれ違う関係、すれ違う世界が始まったのです。神さまの愛を信じて悔い改めることのできない関係と世界が始まったのです。神さまの愛を信じられず、すれ違って生きている生き方。主イエスは、その関係を「罪」(14節)と呼びます。「もう、罪を犯してはいけない」と主イエスが彼に言われたのは、単に律法違反をしてはいけないと言ったのではなく、神さまとすれ違わず、主イエスを通して神の愛を信じ、人生の根底に大切なものをしっかりと持って生きていきなさい、というエールだったのです。しかし、彼はそれを逃しました。
 そのように、罪の世界、罪の人間とのすれ違いを回復するために、愛の世界、愛の人間に戻すために、神は「今もなお働いておられる」のです。それこそ上辺(うわべ)ではない真の安息を取り戻すために働いておられるのです。愛によってこの世界を支え、導いておられるのです。“わたしはあなたを愛している”と、主イエスを通して私たちに呼びかけておられるのです。私の愛を信じて、愛のもとに戻っておいでと招いておられるのです。
 「だから」主イエスは働く。安息日でも働く。父なる神の愛を伝えることに、人を愛するために一途に働くのです。ユダヤ人に殺されそうになっても、私たちに愛を届けるために、命を惜しまず働くのです。主イエスがユダヤ人にはっきりと語った言葉は、“わたしの父は今もなお愛しておられる。だから、わたしも愛するのだ”と言い換えてもよいでしょう。
そして、「だから」私たちも父なる神の愛を信じる。主イエスが命を削って届けてくれた愛を信じるのです。その大切な神の愛を、人生の土台に据えるのです。神の愛に立って、床に担がれず、床を担いで生きていくのです。父なる神が、主イエスが、私を愛してくださったように、私たちも隣人を愛し、互いに愛し合うのです。

 今日は、この「だから」がとても重要なキーワードです。「だから」、私たちは神の愛を信じて、感謝と勇気を持って生きていく。「だから」、私たちは互いに愛し合う。父なる神さまに愛されているから、「だから」‥‥‥この「だから」をいつも意識して、心に留めて生きていきましょう。