2018年1月28日 大人と子どもの礼拝説教
  聖 書 エゼキエル書37章1〜6節
  説教者  山岡 創牧師

37:1 主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。
37:2 主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。
37:3 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」
37:4 そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
37:5 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。
37:6 わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」


「 お前たちは生き返る 」
         〜 枯れた骨よ、主の言葉を聞け 〜
 預言者エゼキエルは、神さまの霊によって、幻を見ます。それは、見覚えのある谷の光景でした。けれども、その谷は枯れた骨でいっぱいでした。エゼキエルが見た幻、特に枯れた骨とはいったい何だったのでしょう?

 最近、『メディアにむしばまれる子どもたち』(教文館)という本を読みました。小児科医として40年の臨床経験を持つ田澤雄作という医師が書かれた本ですが、現代の子どもたちは慢性疲労、睡眠不足、頭痛、うつ等の症状に侵されていると言います。そのために学校を休みがちになり、ともすれば不登校につながることもあるそうです。その原因の一つとして考えられるのが、テレビ、ゲーム、スマートフォン等のメディアだというのです。
 そのようなメディアに触れる時間を制限したり、ルールを作ったりすればよいのでしょうが、子どもは善し悪しの判断のできないまま、楽しさという刺激を求めて、長時間やりたがりますし、大人もメディアに子守をさせておけば楽だ、という思いから、ついつい子どもたちに長時間の接触を許してしまうのです。これらのメディア時代を生きている若い方々、また子育てをされている方々は、多少なりとも覚えがあるのではないでしょうか。
 病院に通って来るこれらの子どもたちは、その生活状況を把握し、メディアとの接触時間を制限して、規則正しい生活に戻すだけで、ほとんどの子どもたちの症状は改善されると言います。
 メディアとの長時間接触は、そのような病的症状だけでなく、脳の発達やコミュニケーションにも大きな影響を及ぼすようです。“人”を描けない子どもたちが増えているそうです。〈木と家と人〉という題で絵を書かせると、人の絵は棒人間を書いてしまう。その棒人間すら書かない子どももいるそうです。人間不在です。また、人の顔が書けない。それだけ人との接触がない、人と向き合っていないということです。それは、人間関係の基本である親子関係から既に始まっています。例えば、赤ちゃんにおっぱいをあげる時、母親がスマフォをいじっていたり、テレビを見たりして、赤ちゃんに顔を向け、目を合わせていなかったらどうなるか?赤ちゃんは、“笑顔”など、その時に必要な愛情を受け取れないのだそうです。
 メディアの影響で、慢性疲労、睡眠不足、頭痛、うつ等に陥る子どもたち。人とのコミュニケーションが不足している子どもたち。私は、エゼキエルの枯れた骨というイメージから、ふと、そのような状況下にある現代の子どもたちの姿を連想してしまいました。現代から2600年も昔にエゼキエルが見た幻は、決してその時代だけのものではないと私は思うのです。

 さて、エゼキエルが生きたのは、イスラエル王国が近隣の大国に圧迫されていた時代でした。北イスラエル王国は滅ぼされて既に無く、南ユダ王国もアッシリアの属国になっていました。やがてアッシリアはバビロニア帝国にとって代わられます。その混乱に乗じて、イスラエルはエジプトと手を組み、バビロニアに対抗しようとしましたが、戦いに敗れ、国を滅ぼされます。多くの主だった人々は捕虜として、バビロンに強制移住させられました(バビロン捕囚)。
そのような中で、イスラエルの人々は希望を失いました。信仰を失いかけました。“神さまを信じているのにどうして?”“神さまはなぜ、われわれをこのような目に遭わせるのか?”そのような不信仰と絶望がイスラエルの人々に広がっていきました。
絶望した人々の姿は“枯れた骨”のようでした。言葉を換えて言えば、“生ける屍(しかばね)”のようだ、ということです。バビロンに捕囚され、絶望するイスラエルの人々の姿に、エゼキエルは、以前に見た戦場の光景、枯れた骨で埋まる谷を連想したのでしょう。死んだような人々の集団をイメージしたのでしょう。
けれども、枯れた骨のような、生ける屍のような人々に、神の言葉が語られます。
「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」(5節)。
 目に見える現実は厳しく、困難です。けれども、あなたたちが見るべきは、神の言葉によって示される将来のビジョンです。枯れた骨が生き返るビジョンです。あなたたちが聞くべきは、神の言葉です。混沌の中に、その言葉によって光を創造され、天地を造られた神の力です。その言葉を聞き、その将来のビジョンを見る時、私たちは今の現実だけに心を支配されず、希望と勇気を持って生きられるようになる。生ける屍のようになっている人々が、希望の人生に生き返る。エゼキエルは、枯れた骨のようになっている人々へ、そのような希望の言葉を語っているのです。

 人は、希望を失ったら生きていくことができません。話は変わりますが、第2次世界大戦の際、ナチス・ドイツは、ユダヤ人を迫害して、その多くを強制収容所に送りました。その一つがアウシュビッツです。このアウシュビッツ収容所に、ビクトール・フランクルという精神科医が収容されました。彼は生き延びて、戦後、この強制収容所内での人々の様子を手記にしました。『夜と霧』という本です。
 この本の中で、フランクルは、収容所の極限状況の中で最も多くの人が亡くなった原因は、疲労でも、飢えでも、病気でもなかったと書いています。その最大の要因は絶望だったと書いています。
 1944年のクリスマスを前にして、クリスマスまでがんばれば、連合軍が攻め込んで来て、クリスマスには自分たちを解放してくれるという噂が収容所内に流れました。人々はそれを聞いて希望に震えたのです。けれども、クリスマスになっても、年が明けても連合軍は来ない。やがて、その情報はデマだったと分かった時、実に多くの人々が発信チフスで亡くなったといいます。絶望し、生きる気力を失い、体の抵抗力を失ったからでしょう。
 そのような絶望的状況の中で、ある日、フランクルは、収容所の中で死にたがっている人々に何かを語ることを求められます。その時、フランクルは、“自分が”人生に何かを期待するのではなく、“人生が”自分に何を期待しているかを考えてみよう。その転換ができた人だけが、苦しみの中にも意味を見つけ、その苦しみを前向きに背負える人だ、と話しました。つまりは、自分が“何かをする”“何かができる”ことに人生の意味があると考えるなら、何かができなくなり、寝たきりになったり、人の厄介にならなければならなくなったりしたら、人生に意味はない、絶望だということになるでしょう。けれども、そういう状態にさえも意味を見つける、人の存在価値を見いだす。それは、人生の視点を転換した人だけが見つけられる、ということです。
 私は、先日の説教でお話した星野富弘さんのことを思い起こしました。フランクルが言っているのは、星野富弘さんのような人のことでしょう。不慮の事故により首から下の体が全く動かず、寝たきりになってしまった星野富弘さんは、自分の人生に、力を抜いて、重みのままに咲く“美しさ”を見つけました。
何のために生きているのだろう。何を喜びとしたらよいのだろう。
   これからどうなるのだろう。
   その時、私の横に、あなたが一枝の花を置いてくれた。
   力を抜いて、重みのままに咲いている、美しい花だった。
(『鈴の鳴る道』より)
 それはすなわち、人間の行動価値を脱却し、存在価値を見つけたということです。何かができるから人に価値があるのではなく、存在そのものに価値がある、ということです。それを見つけることのできる心、それって、つまりは信仰の世界だなぁ、と思うのです。私は神さまによって造られた。その神さまがわたしを愛しておられる。どんな状態でも変わらずに愛してくださる。どんな時も最善に導いてくださる。そう信じるからこそ、見つけられる自分の価値、幸せ、感謝だと思うのです。

 人は骨の上に筋と肉があっても、肉体があっても、生命があっても、生きているとは言えないかも知れません。「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」。(神の)霊を吹き込まれて初めて、人は生きるものになります。生き返ります。聖書を通して、信仰を通して私たちの内に吹き込まれる霊とは、すなわち“希望”です。
神の言葉を聞きましょう。聞き続けましょう。それが力になるまで聞き続けましょう。聖霊(せいれい)が心の中に働き、希望のともし火が心に灯るまでようになるまで聞き続けましょう。その時、私たちは視点を転換できます。“神が”私たちを愛し、生かしてくださっていること気づきます。感謝と勇気と愛を持って生きる人に変えられます。