2018年2月11日 主日礼拝説教
  聖 書 ヨハネによる福音書5章31=40節 

  説教者  山岡 創牧師

5:31 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。
5:32 わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。
5:33 あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。
5:34 わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。
5:35 ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。
5:36 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。
5:37 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。
5:38 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。
5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
5:40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

「 わたしのところに来なさい 」
イエスとは何者なのか?それが私たちにとっても、信仰上の最も重要な問題でしょう。特に、日本という国と風土の中で生きている私たちにとって、2千年前にユダヤで生きたイエスと何の関わりがあるのか?疑問を感じる人が少なからずいます。自分にとって、イエスとは何者なのか?‥‥それがはっきりしたら、私たちは信じることができるのです。イエスとは何者なのでしょうか?

 主イエスご自身は、自分は何者だとは自己証言をしません。「もし、わたしが自分自身について証しするなら、その証しは真実ではない」(31節)と言われます。
 当時、自分のことを神から遣わされた救世主メシアだと自分で証言し、宣言する者がずいぶんいたようです。そう言って、自分の配下につく者を集め、ユダヤ人を支配していたローマ帝国に対して反乱を企てた自称メシアがずいぶんいました。けれども、そういう人物とそのグループは結局、散り散りにされて、跡形もなくなったと言います。自分で自分を何者だと証言することは、薄っぺらな自己宣伝になるのです。だから、主イエスは、そのような自称はしないのです。
 では、主イエスのことを証言するのはだれなのでしょう?「わたしについて証しをなさる方は別におられる」(32節)と、そしてその証しは「真実である」と主イエスは言われます。今日の聖書箇所によれば、主イエスについて証しをするものは4つあります。それは、イエスの業、父なる神、聖書、そしてヨハネをはじめとする人間です。
 まず第一に、主イエスご自身の業です。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」(36節)と記されています。
 主イエスが行っている業とは、どんな業でしょうか?一言で言うなら、愛の業です。神を愛し、人を愛する業です。人を愛することによって、神さまがその人を愛してくださっていることを知らしめる業です。
 主イエスが人を愛する業は、ヨハネによる福音書をはじめ4つの福音書の中に記されています。ヨハネによる福音書5章の最初に読んだ、38年間病気で苦しんでいた人を癒(いや)す業もその一つでしょう。4章で、6人の夫と連れ添い、愛に渇き、苦悩し続けて来たサマリアの女性と対話し、その心を解放したことも、愛の業の一つでしょう。これからもイエス様の愛の業がたくさん出て来ます。
 そして、愛の業の究極は、主イエスの十字架の死です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と、主イエスはヨハネ福音書15章13節で弟子たちに教えておられます。そして、ご自分がその言葉どおりに、友である弟子たちのために命を捨て、ご自分を十字架に架けた者たちをも赦(ゆる)す心で、主イエスは十字架の上で死なれました。命がけの業を通して、イエスは、父なる神がそれほどにあなたを愛している、ということを伝えようとなさったのです。
 その愛にだれよりも打たれたのは、弟子のトマスだったかも知れません。十字架で死んだ主イエスが復活したと聖書は証言します。復活したイエスに出会った弟子たちも証言しました。けれども、トマスだけは信じませんでした。自分がその場に居合わせなかったからです。けれども、1週間後に主イエスは、トマスのためにもう一度現われてくださり、トマスの疑いも、暴言も、その気持もすべて受け止めてくださいました。その愛に打たれて、トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」(20章28節)と信仰を告白し、信じる人になるのです。
 主イエスの業は、神の愛を証しします。主イエスの愛が神の愛と一致していることを証しします。それゆえに、主イエスが父なる神から遣わされた神の子、救い主であることを証ししているのです。

 第二に主イエスを証しするものは、父なる神さまです。「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」(37節)とあります。父なる神が直接、証言してくださる。けれども、その声も言葉も、あなたたちは聞いたことがない、と主イエスは語っています。そういう意味では、父なる神さま御自身の証言というのは、主イエスにしか分からない次元のことなのでしょう。
 けれども、私たちに神の言葉を語ってくれるものがあります。それは聖書です。聖書は第三のものとして、主イエスが神の子、救い主であると証言するものです。
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(39〜40節)。
 永遠の命が何であるか指し示すのは主イエスです。神に愛されて生きる命を与えるのは主イエスです。主イエスのところに来ないで、主イエスを通らないで、永遠の命に至ることはあり得ないのです。
 永遠の命を得たいと願って、主イエスのところに来た二人の人を思い起こします。一人は金持ちのユダヤ人議員です。彼は、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるか、と主イエスに尋ねます。旧約聖書の律法、特に十戒を守ることを示された彼は、それらは子どもの時から守って来たと答えます。それを聞いた主イエスは、「あなたにまだ欠けているものが一つある」(ルカ18章22節)と言われ、財産をすべて貧しい人々に施すことと、主イエスに従うことを勧(すす)められました。それを聞くと、彼は悲しみながら主イエスのもとを去って行ったとあります。
 もう一人は律法の専門家です。彼も同じように、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるか、と尋ねます。反対に主イエスから問い返されて、彼は、神を愛し、隣人を愛することだと答えます。主イエスから、そのとおりだと言われた彼は、では自分の隣人とはだれかと問います。そこからよく知られた〈善いサマリア人〉のたとえ話(ルカ10章25節〜)を主イエスが話し始めます。追いはぎに襲われ、半殺しにされたユダヤ人を見捨てて通り過ぎず、助けたサマリア人のようにしなさい、「行って、あなたも同じようにしなさい」(10章37節)と言われて、彼はだれのところに行ったのでしょう?だれと愛を分かち合ったのでしょう?その後のことは分かりません。
 主イエスは、「命を得るためにわたしのところへ」来なさい、と招いておられます。けれども、主イエスを信じられず、主イエスが教える永遠の命を信じられず、主イエスのところに来なかった、来ても去って行った人が圧倒的に多かったのです。

 けれども、主イエスのところに来て、神の愛を知った人々がいました。命を知った人々がいました。それらの人々が、イエスは神の子、救い主であると証言しました。それが第四の証言、人間の証言です。
 最初の三つの証言は、私たちにとって、ある意味一つだと言うことができます。と言うのは、イエスのなさった業も、父なる神の言葉も、聖書の中に、特に新約聖書の中に書き記されており、聖書を通して、私たちは、イエスの業も神の言葉も知るからです。そういう意味で、聖書とイエスの業と神の言葉という証言は、3つにして1つだと言うことができます。
 けれども、第四の証言、人間の証言は、先の3つとは質が違います。聖書、イエスの業、神の言葉とは、言わば“神の証言”、神ご自身の直接的な証言です。けれども、人間の証言は、神の証言を聞いて、イエスは神の子、救い主、つまり神の愛と命を届ける方と信じた人間が、そのとおりだと証しする、言わば間接的な、二次的な証言だと言うことができるでしょう。
 人間の証言の代表者として、今日の聖書箇所では、洗礼者ヨハネが挙げられています。福音書を書いたヨハネとは違う人物です。ヨハネは、主イエスとの交わりを通して、この方こそ神が遣わされた神の子、救い主と信じて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1章29、36節)と証ししました。それを聞いたヨハネの弟子が、主イエスのところへ行き、主イエスの弟子になりました。人間の証言が間接的で、二次的とは言え、非常に重要な意味を持っているのは、他の人が主イエスのところへ行くきっかけとなるからです。主イエスと対話し、心を解放されたサマリアの女性もそうでした。彼女は、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方が(救い主)メシアかもしれません」(4章29節)と言って、町の人々を主イエスのところに導きました。
 そのヨハネは、主イエスを婚礼の主役である花婿に譬(たと)え、自分は花婿の介添(かいぞ)え人だと言って、「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」(3章29節)と証言しました。
 私は、人間の証言でとても重要なのは、この「喜び」だと思います。単に良いことがあったから喜ぶと言うのではなく、どんな時も神の導きを信じ、受け入れ、感謝する喜びです。そして、主イエスを信じる者の喜びの心が、喜びの生活が、周りの人を、自分も主イエスのところに行ってみようという気持にさせるのです。そういう意味で、喜んで信仰生活をしている人は、まさに「燃えて輝くともし火」(35節)です。小さくても、無名でも、喜びによって輝き、周りの人をその喜びで照らすのです。
 主イエスは、「人間による証しは受けない」(34節)と言われていますが、これは人間の証しは要らない、と言っているのではありません。人間による証しは、それを聞く人にとって、間接的で、二次的だと言っているのです。つまり、人がだれかの証言を聞いて、主イエスのところに行ってみようと求道の生活を始めたとします。けれども、人間を信じるのでは信仰は持てず、また続きません。求道の中で、その人が主イエスと直接出会い、主イエスを神の子、救い主と信じるようになるのは、聖書、主イエスの業、神の言葉によってだ、ということです。信仰は、聖書を通して神さまに直接示され、与えられることが大事です。
 けれども、そのきっかけを作るという意味で、私たち人間の、喜びの伴う証言は、とても大きな役割を果たすのです。

 『こころの友』2月号に、中井大介さんという方の証し(説教)が載っていました。それほど熱心ではない仏教の檀家家庭で育った中井さんは高校時代、新渡戸稲造、内村鑑三という人物からキリスト教に関心を持ちます。その後、阪神淡路大震災の体験を経て、安心できる故郷を求めて信仰の道を歩き始めます。紆余曲折(うよきょくせつ)の末、牧師となった中井さんは、最後にこう書いておられます。
 教会でかけがえのない友人、生涯ともに歩んでくれる仲間、人生の手本となる先輩方との出会いがありました。‥‥神は私の想像しなかった道筋で、教会という心の故郷を与えてくれました。私が求めたとおりの出来事が実現したわけではありませんが、私の想像を超えた宝物が後から追いかけてきてくれたのです。
中井さんもまた、信仰の喜びを“宝物”という言葉で証言しています。イエスが神の子、救い主であることを証ししています。
 私たちもまた、主イエスのところにきて、神の愛を信じ、主イエスを証しする「輝くともし火」、世の光です。しかし、気張る必要はありません。主イエスのところに来続けてさえいれば、私たちはそれだけで、輝くともし火です。主イエスに愛されて輝くともし火です。主イエスがそのようにしてくれます。自然体で、自分らしく、主イエスにお任せして、これからも信仰の道、求道の道を進んでいきましょう。