2018年3月11日 主日礼拝説教(受難節第4主日)
  聖 書 ヨハネによる福音書6章1〜15節


  説教者  山岡 創牧師

6:1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
6:2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
6:3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
6:4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
6:5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6:6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
6:7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
6:11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
6:12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
6:13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
6:14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
6:15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。



「 人を満腹させるもの 」
 杉咲花という女優を、皆さん、ご存じと思います。NHKのテレビ小説〈とと姉ちゃん〉で3姉妹の一人を演じましたし、クック・ドゥーの回老鍋(ホイコーロー)のCMでも、よく知られています。多くの映画でも活躍している20歳の女優さんです。
 数日前に、何のインタビューだったか、彼女が“願いが一つ叶うならどんなことがいいですか?”というような質問を受けていました。それに対して彼女は“食べても食べても‥”と言いました。私は、“おっ!さては私と同じ願いだな”と思いました。と言うのも、私は、もし神さまが一つ願いを叶えてくださるなら、永遠の命‥‥ではなく、“食べても食べても太らない体”がほしいと思っているからです(冗談)。
 ところが、彼女は“食べても食べても満腹(満足)しない体”と答えました。トホホ‥、さすがにきれいな女優さんは、ぼくと思うことが違うわ。そんなことを思った数日前の出来事を、この聖書箇所を黙想しながら思い出しました。

 主イエスは、パン五つと魚二匹で、5千人の男たちを満腹させました。私たちはこの箇所を読んで、どうやったらこんな奇跡が起こるのだろう?と、とても不思議に思います。単純に信じる人がいます。あれこれと解釈し、納得できる説明を探す人もいます。あるいは、こんなあり得ないことを書いているから、キリスト教は信じられないんだ、と否定する人もいるかも知れません。
 けれども、今日の聖書箇所を、「しるし」(14節)という視点で、つまり神の奇跡という視点で読んではならない。その視点で考えると、ヨハネによる福音書が、言わんとしているポイントから離れていくのではないかと思うのです。
 もちろん、神の力、神の全能を信じることは、信仰の大前提です。私たちは、神さまが天地を造られた。そこに生きるもの、私たち人間を造られたと信じています。だから、「神にできないことは何一つない」(ルカ1章37節)と信じます。それゆえ、パン五つと魚二匹で5千人を満腹させる奇跡を、神さまは起こすことができると信じるのです。
 けれども、それだけの信仰ならば、私たちは、今日の聖書箇所を読んで、神さまならば、神の力を宿した主イエスならば、それができます、私はそれを信じますと、ただ飲み込むだけで、咀嚼(そしゃく)しない信仰に終わります。ともすれば、この聖書箇所に登場する群衆のように、「しるし」を求めて主イエスを追いかけるクリスチャンになってしまいます。
 主イエスは、そのような群衆、そのようなクリスチャンを望んではいません。今日の聖書箇所に登場する群衆は、「大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」(2節)と最初に紹介されています。そして、パンと魚のしるしを見た群衆は、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」(14節)と言って、主イエスを担いで王様にしようとしたと最後に書かれています。当時、ローマ帝国に支配されていたユダヤ人たちは、ローマを打ち破り、独立を取り戻すことを願っており、そのために力のある英雄を求めていたからです。
けれども、主イエスは、しるしを求める群衆の願いと行動を受け入れず、「ひとりでまた山に退かれた」(15節)とあります。また、この直後の箇所で、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(6章27節)とも語っています。つまり、しるしを求め、奇跡を願って主イエスを信じることを、主イエスは望んではいないのです。だから、私たちも、今日の聖書箇所を、ただ単に「しるし」として、神の奇跡としてだけ読むことは、主イエスのお望みではないのです。永遠の命に至るような読み方が、御(み)言葉を咀嚼して、日常生活の中で、私たちの心を満たし、行動を導き、生き方を変えるような読み方が求められています。

「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(5節)。主イエスは、弟子のフィリポにそのように問いかけて、彼を試みました。フィリポが今、どのような信仰を持っているか、どのような考え方をしているか、それを試み、知ろうとしたのです。そして、今この聖書箇所を読んでいる私たちも、主イエスから“どうしたらよいだろうか?”と問われていると言えます。どう答えるか、それによって私たちの信仰が試されていると言ってよいでしょう。
 「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(7節)。フィリポは、ごく普通に答えました。1デナリオンは、当時1日働くともらえる労賃でした。その労賃で家族みなが1日のパンを食べたのです。もし5人家族だとすれば、二百デナリオンは千人分のパン、10人家族だとしても2千人分ですから、とても5千人には足りません。ですから、フィリポの答えは極めて常識的な考えであり、計算です。私たちも同じように答えるかも知れません。
 また、その時アンデレは一人の少年を連れて来て、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう」と言いました。これもまた、常識的な、当然の判断です。けれども、主イエスが求めているのは、そのような計算や判断ではないのです。
 二人の弟子に共通していることがあります。「足りないでしょう」、「何の役にも立たないでしょう」。考え方が否定的なのです。人間の常識的としてはそのとおりです。けれども、それで結果を先に計算してしまっています。だから、やめた方がいい。解散して各自でパンを買いに行かせた方が理に適っている。そう考えています。もちろん、常識を捨てろ、と言うのではありません。無計算でいい、と言っているのでもありません。けれども、私たちの力や条件を考えた上で、神さまを信じて行動する。それが信仰です。そして、この信仰のあるところに“奇跡”というのは起こるのではないでしょうか。

 フィリポやアンデレとは違う考えを持った人がいました。少年です。少年は、イエス様と弟子たちが、食べ物のことで、どうしようかと困っている様子を見たのでしょう。そして、自分が持っているパン五つと魚二匹が、何か役に立つかも知れないと思って、イエス様のところに持って来て、お献げしようと思ったのでしょう。その心には、足りない、何の役にも立たないという否定的な、後ろ向きな思いはありません。ただ、主イエスのお役に少しでも立ちたいという思いがあります。神への愛があります。主イエスが、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10章14〜15節)を彷彿(ほうふつ)とさせるシーンです。
 “パン五つと魚二匹しかない”と考えるか、“パン五つと魚二匹もある”と考えるか、これは生き方の大きな違いになります。もちろん、シチュエーションにもよるでしょう。けれども、そこで人間的に、常識的に考えるだけならば信仰はありません。そこで、わずかなものを生かして用いる神の愛と力を信頼することが信仰なのです。神さまを信じる時、私たちは、“パン五つと魚二匹もある”“パン五つと魚二匹がある”と考えることができるようになります。少年は、無意識かも知れませんが、“イエス様なら、ぼくのパンと魚を役に立ててくださる、生かして用いてくださる”と信じていたのでしょう。
主イエスは、「ご自分では何をしようとしているか知っておられた」(6節)とありますが、信じて献げる最初の一人目を待っていたのでしょう。つまり、主イエスは、弟子たち、また群衆の内に、信仰(神への愛)と分かち合いの心(隣人への愛)を喚起しようとしておられたのです。
 そこに奇跡が起こります。主イエスは、少年が献げたパン五つと魚二匹で奇跡を起こしてくださいました。5千人を満腹させてくださいました。残ったパンの屑で、12の籠がいっぱいになるほどにしてくださいました。主イエスを信じ、神さまを信じて献げる。その先の結果は、神さまにおゆだねです。神さまが最善にしてくださると信じるのです。
 想像がゆるされるなら、少年の姿を見て、大人たちは恥ずかしくなったのかも知れません。パンを持って来ていた人も少なからずいたでしょう。けれども、人に分けたら足りなくなる。そう思って自分一人で食べようと思っていた人が、少年を見て恥ずかしくなり、イエス様に献げて分かち合おうと考えたのかも知れません。その信仰と愛の思いが、奇跡を生んだのかも知れません。

 会堂建築の時のことを思い起こします。当時、私たちは、高麗川(こまがわ)のほとりの23坪の土地に建つ、小さな中古家屋を改造した会堂で礼拝を守っていました。少しずつ集まる人が増えて来ました。小さな子どもたちがあふれるほどになりました。会堂が狭くなって来ました。新会堂の建築がいよいよ切望されるようになりました。
 けれども、当時、私たちの教会は、初雁教会から毎月受けていた経済援助をようやく返上したばかりで、たくわえはほとんどありませんでした。狭くなったと言っても、教会員は20数名、特に資産家がいるわけでもなく、経済的に豊かな人がいるわけでもありません。教会では、お金がらみのことはシビアな問題になることが多いです。献げることを躊躇(ちゅうちょ)する人もいますし、教会を離れる人も出て来ます。それでも、これからのために必要だから、やろう。神さまを信じて、みんなで献げて、新しい会堂を建てようということになりました。土地を買い、建物を建てて、2005年4月に移転しました。7500万円余りの費用がかかりました。それを皆で献げました。教会から離れる人は一人もいませんでした。献金だけでは足りず、日本基督(キリスト)教団や教会員の皆さまから教会債という借金をしました。それも、皆さんの後日の献金で返していくわけですから、結局すべて献金なのですが、10年の返済計画が7年で済みました。私たちの感謝と喜びは、それこそ教会という籠(かご)にあふれました。これは、神さまを信じて、一人ひとりがパン五つと魚二匹を献げて、神さまが起こしてくださった“坂戸いずみ教会の奇跡”と呼ぶ以外の何ものでもないと思います。
 それほど大きな出来事でなくても、例えば、榎本保郎先生という牧師が『ちいろば』という著書に、こんなことを書いています。ある日、信仰にいちゃもんをつける若いお母さんが教会にやって来ました。榎本先生とのやり取りの中で、先生を信頼したこのお母さんは、子どもを教会の保育園に預け教会にも来るようになりました。ある日、この女性が榎本先生に悩みを打ち明けました。姑と仲が悪く、もう何年も会っていない。何とか姑と仲直りがしたい、と。そこで、榎本先生は祈って、励まして、彼女を送り出しました。しばらくして、彼女が帰って来ました。どうだった?と聞くと、玄関の前で足がすくんで帰って来たと言います。榎本先生は、しっかりと神さまを信じて、讃美歌〈み神と共に進め〉を歌いながら行きなさいと励まして、もう一度送り出します。ハラハラと祈りながら待っていた榎本先生の耳に、やがて道の向こう方から〈み神と共に進め〉の歌声が聞こえて来ました。帰って来た彼女は、涙を流して姑と仲直りができたと報告したということでした。
 自分の意志や力だけを考えたら勇気が湧かない。神さまを信じたからこそできた、日常生活の中での“小さな奇跡”です。人と和解するのは本当に難しい。尻込みします。棚に上げておきたくなります。けれども、願い続け、信じ続けて、神さまに背中を押されたら、すぐにではなくても、どこかできっとできる“奇跡”です。

 奇跡とは、物理的に、常識的にあり得ないことが起こることだけが奇跡なのではありません。私たちが、神さまを信じて一歩踏み出す。そこに奇跡は起こります。それを体験すると、心の籠に感謝と喜びがあふれます。神さまを信じて一歩踏み出す信仰生活を願い求めて進みましょう。