2018年3月18日 主日礼拝説教(受難節第5主日)
  聖 書 ヨハネによる福音書6章16〜21節


  説教者  山岡 創牧師

6:16 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。
6:17 そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。
6:18 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。
6:19 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。
6:20 イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
6:21 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。



「 目指す地に着くために 」
  スマートフォンを使うようになってから、ちょうど1年ぐらいになります。使い始めて3日間ぐらいは、なかなか使い方が分からなくて、正直、放り投げたくなりました。そんな状態から、自分の子どもに少しずつ教えてもらい、だんだん使えるようになって来ました。今でも、使いこなしているとは言えないでしょうが、まあラインやインスタグラムを人並に使ったり、インターネットで動画を見たり、お店を調べたり、電車の乗換ルートを検索したり、そこそこ使えるようになりました。
 さて、昨年の暮れの頃でしたか、スマートフォンの中に万歩計のアプリ(ソフト)が入っていることに気づきました。毎日、勝手に歩いた歩数を計っていて、今、何歩と表示されます。それを見つけて、年明けから1日1万歩を目標に歩くことを始めました。普通に生活していたら、まず1万歩には届きません。早朝か夜に、スマートフォンを持って土手を歩くか走ることにしました。
 ついでに、万歩計に、目標コースの設定という機能が付いていたので、それもやることにしました。私は、世界一周4万キロを歩きたいと思ったのですが、そういうコースは残念ながらなかったので、東海道53次コースにしました。日本橋を出発して京都を目指す約450キロです。万歩計が、その日の歩数で歩いた距離を計算し、“今日はどこの宿に着きました”と教えてくれます。正月から始めて、今、滋賀県の土山宿まで来ました。京都まで、あと48キロです。そんなことで、“今日はどこまで行ったかな?”と楽しみながら歩いています。1日1万歩を目標にする張り合いがあります。
 目指す場所があると、歩き甲斐があります。何事も目標があると、張り合いが生まれます。モチベーションが上がります。今日の聖書箇所を黙想しながら、私はふと、信仰生活もそうではないか、と思いました。

 今日の聖書箇所は、弟子たちがガリラヤ湖を、舟で向こう岸に渡るという内容です。直前の箇所で、パン五つと魚二匹で5千人の群衆を満腹させた主イエスを、人々は自分たちの王にしようとしたと書かれています。ローマ帝国を倒し、ユダヤ人の独立を取り戻すためです。けれども、主イエスはそれを知ると、ひとりで山に退かれます。人々の手で王に担がれないように隠れたのです。遅れて弟子たちも山に退いたようです。
 夕方になり、ほとぼりも冷めた頃に、弟子たちは、群衆に気づかれないように、こっそり湖畔に下りて来て、舟に乗りました。向こう岸のカファルナウムに行くためです。その町は、弟子たちのホームグラウンドでした。
 ところが、湖の途中で嵐に遭い、難儀しているところに、主イエスが湖の上を歩いて近づいて来ます。弟子たちは恐れましたが、主イエスの声を聞いて、舟に迎え入れようとした時、「舟は目指す地に着いた」(21節)という話です。
 ところで、同じ内容の話がマタイ福音書(ふくいんしょ)14章、マルコ福音書6章にもあります。それらと読み比べてみると、ヨハネによる福音書の内容は、とてもシンプルで、細かい描写をそぎ落としています。例えば、夜中、湖の上を歩く主イエスを見て、幽霊だと思ったとか、ペトロが主イエスに向かって湖の上を歩くシーンとか、おぼれかけて“信仰が薄い!”と叱られたりとか、そういう描写が省(はぶ)かれています。
 けれども、そういう中で、ヨハネによる福音書にしかない内容があります。それは、最後の21節です。弟子たちが主イエスを舟に迎え入れようとすると、「間もなく、舟は目指す地に着いた」(21節)という事柄です。マタイやマルコには、舟が目指す地に着いたとか、向こう岸に着いたといった記述はありません。
 私は、今日の箇所を黙想していて、この最後の21節が印象に残りました。特に、カファルナウムに着いたとは書かず、「目指す地」と記されていることに感じるものがありました。最初にカファルナウムに行こうとした、と書かれているのだから、もう一度地名を出す必要はないと言えば、そのとおりです。けれども、場所が特定されず、「目指す地に着いた」とだけ書かれていることに、ふと“目指す地とはどこだろう?”と想像をかき立てられました。
 しかも、地理的に、物理的に考えれば、舟は向こう岸には決して着いていないのです。と言うのも、舟は「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したところ」(19節)で主イエスを迎え入れようとしたわけです。聖書の巻末に度量衡の表がありますが、1スタディオンは185mですから、25ないし30スタディオンは4625mから5550mです。約5キロです。一方、ガリラヤ湖は南北21キロ、東西幅13キロの湖です。舟を5キロ漕ぎ出したところで主イエスが近づいて来て、それを迎え入れようとしたら、「間もなく、舟は目指す地に着いた」というのは、残り8キロないし16キロを一気に進んで向こう岸に着いたとは考えられません。つまり、舟はまだ湖の途上にあるわけで、だから「目指す地」とは、向こう岸にある地理的な場所ではないということになります。
 では、「目指す地」とはいったいどこでしょうか?何でしょうか?それは私たちの信仰に関わってくる重要なキーワードであり、考えるべき課題です。

 私たちは、何を目指して信仰を求めているのでしょうか?信仰生活を歩んでいるのでしょうか?皆さんは、「目指す地」とは何だと思いますか?
 ヘブライ人への手紙の言葉を借りて言うならば、それは「天の故郷」ということになります。「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」と11章16節にあります。アブラハムという神に選ばれた人が、地上の約束の地よりも天の故郷を熱望していたと書いて、クリスチャンのモデルとしています。天の故郷すなわち天国は、ヨハネによる黙示録(もくしろく)21章によれば、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」世界です。平安な世界です。主イエスのたとえ話によれば、そこは喜びのパーティー会場です。クリスチャンの信仰生活とは、天国を目指す地上の旅、命の旅だと言うことができるでしょう。
 けれども、東海道53次を、京都を目指して歩きながら、その途中で、次は箱根宿だ、次は岡崎宿だ、と小さな目的地があるように、私たちの信仰生活にも、その途上で、小さな、現実的な目的地があるのではないでしょうか。
 今日の聖書箇所で、湖の途上で、「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」(18節)と書かれていること、また、その時に「イエスを舟に迎え入れよう」とすると、「間もなく、舟は目指す地に着いた」(21節)と書かれていることが、信仰生活途上の目的地を考えるヒントになります。
 湖を舟で渡ることを私たちの人生と考えれば、人生に嵐は付きものです。人間関係に波風が立ち、生活が荒れることも多かれ少なかれあるでしょう。その現実の中で、私たちは悩み苦しみ、迷い、落ち込み、絶望します。
 そういう中で、私たちは、だれかを通して、何かを通して、教会を通して、自分に近づいて来てくださる主イエスと出会うことがあります。そして、「わたしだ。恐れることはない」(20節)という力強い御(み)言葉に触れます。聖書を通して、御言葉に感動し、自分と御言葉を重ね合わせて、慰めや励まし、導きや支えを、信仰と聖霊(せいれい)のお働きによって味わいます。そういう御言葉による恵みの経験を積み重ねることによって、どんな時にも平安を失わず、迷った時にも道を見出し、喜びと感謝のある、自由な心境と生き方を与えられ、培(つちか)われていくのです。そのような信仰による心境と生き方こそ、私たちの信仰生活途上の目的地だと言うことができるでしょう。

 そのような信仰による心境と生き方を手に入れ、身に付けるために、信仰生活の上で“目標”という名の「目指す地」を定めるのも良いことだと思われます。モチベーションが上がります。ただ何となく、マンネリにではなく、メリハリのある、意識的な信仰生活が送れるに違いありません。
 例えば、毎日、聖書を読んで祈ることを目標にしてもいい。1日のいつ、どのぐらいの時間、聖書を読んで祈るか、無理のない範囲で、具体的に目標を立てることがよいと思います。忙しいという方には、私は、『日々の聖句』を勧(すす)めます。朝、起きて、仕事や家事を始める前に、出かける前に読む。玄関の靴箱の上に『日々の聖句』を置いておいて、玄関で読んだっていい。その日の御言葉を一句、読んで(朗読して)、一言祈って出かける。1分あればできます。自分の中に、聖書の御言葉を入れて出かける。朝食のパンだけではなく、神の言葉を心に摂取(せっしゅ)して(マタイ4章4節参照)、祈って1日を始める。きっと1日の心境が、生き方が変わって来ます。
 礼拝(れいはい)に、休まず毎週出席する。これはかなりきついですね。でも、目標にする甲斐のある目標だと思います。聖書と祈りの会に毎月1回出席するでもよし。聖書黙想の会に毎回出席するでもよし。家族のために毎日祈るでもよし。家族を愛するために、これは必ず自分がするでもよし。何でもいいのです。無理のない範囲で、具体的に設定する。目標を立てると、信仰生活が引き締まって来ます。その目標を達成するために、節制し、自分を整えるようになるからです。
大切なことは“‥ねばならない”と縛(しば)りにしないこと。目標は目標です。できない日もあるかも知れない。あってもいい。楽しみながら、目指してやることです。達成したことを表に書くのもいいです。目に見える達成表があると、明日へのやる気が出ます。

 具体的な行動の目標と同時に、“こういうクリスチャンでありたい”というクリスチャン像の目標があるのもよいと思います。
その関連で話をちょっと変えますが、今、平昌パラリンピックが開催されています。日本代表で、下肢障がいを負ってスノーボード競技に出場している成田緑夢(ぐりむ)という24歳の選手がいます。19歳の時にトランポリンの練習中に大けがをして、左ひざ下の感覚を失います。しかし、成田選手はその後、家族で楽しんでいたスノーボードに本格的に取り組むようになりました。競技を始めて3年目、先日16日には、バンクドスラロームという競技で金メダルに輝きました。成田選手がインタビューで語った“障がいを持つ人たちの光になりたい”との言葉が、朝日新聞に次のように掲載されていました。
  障がいがあっても、スポーツができることを知ってほしい。‥‥
  過去にもたくさんの人が医者からもう歩けないとかスポーツできないと言われていると思うんだけど、僕は金メダルを取れた。ちょっとした光になれたら、僕はそれが一番うれしいです。
 私はこの言葉を読んで、「あなたがたは世の光である」(マタイ5章14節)と主イエスが弟子たちに言われた御言葉を連想しました。例えば、クリスチャンとして、世の光でありたい、どんな時にも平安と喜び、感謝を失わないような、それを目指す生き方をして、周りの人に信仰の希望を示す光でありたい。そのように、私たちはクリスチャンとしての目標、自分の信仰生活のテーマのようなものを掲(かか)げるのもよいのではないでしょうか。
 主イエスを信じ、主イエスと共に、御言葉と共に、愛と共に、人生を旅する。目標を、目的地を目指す。そんな信仰生活を歩ませていただきたいと願います。