2018年3月25日 大人と子どもの礼拝(受難節第6主日)
  聖 書 ルカによる福音書23章39〜43節


  説教者  山岡 創牧師

23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。


「 あなたは今日、楽園にいる 」
  坂戸いずみ教会の礼拝堂では、正面の壁に十字架を掲げています。今は受難節レントなので、主イエス・キリストが十字架刑にされる前にローマの兵士たちによってかぶらされた茨の冠を十字架に掛けています。
 この十字架には、光の当たり方で色んな影ができます。今は茨(いばら)の冠を掛けていますが、その影が後ろの壁にハートの形に映ります。私たちのために十字架で死なれたキリストの愛を象徴しているかのようです。
また昨年の秋には、講壇の真上の電球が切れたので、新しいものに交換したら、なぜか十字架の左右に、まるで天使の羽が付いているかのような影が映りました。インスタ映えすると言って、青年や高校生たちが、クリスマスの夜、写真を撮って楽しんでいました。
 もう一つ、不思議な影が映ります。今、見えるでしょうか?これは正面の壁が左右斜めになっているためだと思いますが、よく見ると、十字架の影が左右に1つずつ映ります。まるで3本の十字架が並んで立っているように見えるのです。
 私は、この影を見つけた時、今日の聖書箇所に描かれている、主イエスと一緒に二人の犯罪人が十字架に架けられたシーンを連想しました。

 「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架に架けた。犯罪人も、一人は右に、一人は左に、十字架につけた」(33節)。直前の33節には、主イエスと一緒に、二人の犯罪人が十字架刑にされたことが記されています。
 そのうちの一人が、主イエスをののしりました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)。主イエスに無実の罪を着せたユダヤ人の議員たちや、主イエスを十字架に架けた兵士たちも、“お前がメシアなら、ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ”とののしっていました。それを聞いた犯罪人は、一緒になって主イエスをののしりました。主イエスを挑発し、あわよくば、主イエスの力によって、自分も処刑を免れたい、死を免れたいと思ったのです。
 往生際が悪いと言いましょうか、この人は、自分の死を受け止めることができないのです。それは裏返せば、自分の人生を受け入れられないということであり、自分自身をしっかりと見つめていないということです。自分が今までして来たことを受け止められていないのです。好都合なことは受け止めても、不都合なことは、だれかのせい、何かのせいにする。つまり自己中心に生きているのです。
 他方、もう一人の犯罪人は、主イエスをののしる犯罪人をたしなめました。この期に及んで、あまりにも身勝手過ぎて、醜いと思ったのでしょう。それは、一歩間違えば、自分もそうなっていたと、たしなめた犯罪人は感じたのかも知れません。
「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」
(41節)
 彼は自分を見つめていました。「自分のやったこと」がどんなことか認めていました。そして、その報いとして処刑されることを当然と受け止めていました。つまり彼は、死を目の前にして、神さまを意識し、神の前に、自分の罪を認めたということです。それは、一言で言えば、悔い改めた、ということです。
 十字架を目にする時、私たちは、神さまを意識します。目には見えないけれど、神さまがいて、その神さまの前に立っている自分を意識します。そして、自分が神さまからどのように見られているかを考えます。自分が悪いことをしたのであれば、神の目は恐ろしく感じられるでしょう。そういう目で自分自身を見つめる、見つめ直すのです。
 そういう意味で、礼拝堂とは、自分を見つめ直す場所です。主イエスと一緒に十字架に架けられている自分を想像し、意識する場所です。自分のやったことを認めず、人のせいにしたり、何かに不満をぶつけたり、自己中心に生きている自分を、神の前に見つめ直す場所です。悔い改める場所です。

 と同時に、礼拝堂は、自分の罪を認めた者が、神の憐れみと赦(ゆる)しを祈る場所でもあります。主イエスのたとえ話の中で、徴税人(ちょうぜいにん)が「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と、顔も上げず、胸を打ちながら祈ったように、祈る場所です。
 さて、この犯罪人は、「イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)と願いました。自分のやったことを考えれば、あなたの御国にわたしも入れてください、などとは、おこがましくて、とても言えない。憐れんでください、赦してください、とすら言えない。彼はそう思ったに違いありません。「思い出してください」。それが彼の精一杯の願いでした。
 彼は犯罪人として処刑される身です。今まで人生のほとんどを、人を傷つけ、悲しませ、迷惑をかけて生きて来たのかも知れません。そうだとしたら、だれも彼のことを思い出したくもない、忘れたいぐらいかも知れません。
 けれども、神の御国に入れない自分のことを、だれも覚えていない、思い出してもらえないとしたら、それはとても寂しく、辛いことではないでしょうか。すべての人から忘れ去られる。そして神さまからも忘れ去られる。それは、まさしく“魂の死”です。だから、彼はせめて主イエスに思い出してほしい、神さまに忘れないでほしいと願ったのです。
 ところが、そのように願った彼に、思いがけない約束の言葉が与えられます。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)。
 思いがけない主イエスの言葉に、彼は、どんなにびっくりしたでしょうか。どんなに感謝し、涙を流したことでしょうか。彼はきっと、感謝して自分の人生を終えることができたに違いありません。
 救いとは、それまでの「自分がやったこと」によって決まるのではありません。善いことをしたから愛されて天国に行けるというわけではなく、悪いことをしてきたから救われず、神の国に入れないわけでもないのです。先ほど少し、主イエスのたとえ話の中で、罪人の祈りを挙げました。同じたとえ話の中に、善い行いをたくさんしているファリサイ派の人が出てきます。彼は、自分の行いを神さまに認めさせたい、そんな祈りをしていました。そして、神さまに受け入れられて、神の御国を約束されて帰ったのは、善い行いをしているファリサイ派の人ではなく、「罪人のわたしを憐れんでください」と祈った罪人だったと、主イエスは語っています(ルカ18章9〜14節)。
だからと言って、悪いことをしてもよいのだと開き直ってはなりませんし、善い行いをして生きられれば、それに越したことはありません。けれども、私たちは決して、そんなに善人にできていないと思います。罪人です。でも、そんな罪人である私たちが、自分を見つめ、自分の罪を認めて神さまに謝る。そして、神さまに憐れみと赦しを祈り願う時、神さまは、私たちを赦して、神の御国へ迎え入れようと、恵みの言葉をかけてくださるのです。

 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。恵みの御(み)言葉をいただいた犯罪人は、感動し、感謝して人生を終えたに違いありません。
ところで、死を迎える時、私たちが、どのような気持で、態度で、言葉で人生を終えるか、それはとても大切な人生の課題だと思います。
 先週の日曜日、聖書黙想の会で、ルカ12章13〜21節〈愚かな金持ちのとたえ〉を黙想し、お互いに分かち合いました。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」。財産を築き上げた金持ちが、これで一生安泰、遊んで暮らせると考えた時、このように神さまから言われるのです。
 私は、もし自分が「今夜、お前の命は取り上げられる」と余命宣告をされた、残りの時間で何がしたいか?果たして悔いなく死ねるか?悔いのないようにするにはどのように生きればよいのか?と考えさせられました。金持ちのように何かを行って、努力をして、結果を残したとしても、悔いが残りそうだ。それより、最期に感謝して死ねたら、悔いが残らないのではないか?家族に、周りの人に、人生そのものに、そして神さまに“ありがとう”と感謝して逝(い)けたら、その人生は悔いが残らないのではないか?そう思いました。そこで、私は先週の日曜日から、それを言葉にして壁に貼り、一日一つ、感謝を見つける生活をしています。
 そして、更に今日の聖書箇所で、悔いなく死ねるためには、最期に主イエスから、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言っていただけるような生き方をすることだと教えられました。そのためには、自分を見つめ直し、罪を認め、愛と赦しを祈りながら生きること。そして、罪人である自分が、神の赦しと御国の約束をいただいていることを感謝して生きることだと思いました。いちばんの感謝は、今日も神さまに愛され、赦されて生きていること、毎日この恵みを感謝して生きていきたいと思います。