2018年4月15日 主日礼拝説教
  聖 書 ヨハネによる福音書6章34〜51節


  説教者  山岡 創牧師

6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。
6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
6:42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
6:43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
6:44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
6:46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
6:47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
6:48 わたしは命のパンである。
6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」



「 わたしのもとに来る 」

 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)。
 私はパンが大好きです。一日1回はパンが食べたい派です。そして、どうせ食べるならおいしく食べたい。おいしく食べるためには、トーストにバターを塗るタイミングと塗り方が肝心だと思っています。程よく焼けたら、熱いうちにバターを塗る。時間を置いて冷えて来ると、バターが溶けず、伸びなくなります。そうすると、おいしさが半減してしまいます。焼いたら素早く塗る。そして、ちゃんと耳の隅まで塗る。そうすれば、おいしいトーストの出来上がりです。そういうこだわりがあるからでしょうか、私が焼いてバターを塗ったパンは、家族のだれかが焼いて塗ったパンよりもおいしいのだそうです。
 確かにパンは好きです。こだわるほどではありませんが、好みがあります。最近はできるだけフジパンの“本仕込み”という食パンを買うようにしています。私の味覚からすると、この食パンがバターといちばん相性がいいです。
 そう言えば、2年ちょっと前に天に召されたI.Mさんは食にこだわる人でした。この食品は、この店で売られているものを買う、といった感じでした。特に食パンは、千代田にあるアサカ・ベーカリーのものがいちばんおいしいと言って、それ以外は買わなかったようです。Iさんは、おいしいものが食べたい派でした。
 そんなことを考えていましたら、ふと、主イエスという「命のパン」も、食べるなら、やっぱりおいしくいただいた方がいい、と思いました。では、イエス様をおいしくいただくためにはどうすればよいのか?パン自体は最高級品です。あとは食べ方の問題でしょう。そう、命のパンには食べ方がある。おいしい食べ方がある。そう思いました。

「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(34節)。群衆は、主イエスという“命のパン屋さん”にパンを求めました。命を与える天からのパンを求めました。
 けれども、群衆が求めるパンと、主イエスが与えようとしているパンは大きく違っていました。群衆は、主イエスに、胃袋の空腹を満たすパンを求めていました。
6章の冒頭で、群衆は、主イエスによって満腹させられています。五つのパンと二匹の魚で5千人の男たちが満腹するという体験をしたのです。それで、湖の向こう側からこちら側まで主イエスを追いかけて来て、主イエスとの“パン問答”の末に、「そのパンをいつもわたしたちにください」と主イエスに求めたのです。けれども、求めたのは胃袋を満腹させるパンでした。言い換えれば、目に見えるご利益でした。
けれども、主イエスが与えようとしているものは、胃袋を満腹させるパンではありません。心を満たす霊的なパンです。私たちの心に“命”を与えるパンです。つまり、胃袋は満腹していても、“生ける屍(しかばね)”“死者”のような生き方にならないためのパンです。
どんなに胃袋が満腹していても、社会的に成功していても、多くの財産を持っていても、目に見える人生の現実がうまくいっていても、ズレた生き方があります。心が満たされない人生があります。そのズレを修正し、心の空腹を満たすパンを与える方が主イエスです。神の愛で人の心を満腹させ、人がそれをいただくことで、人の内に慰めを満たし、平安を満たし、希望を満たし、喜びを満たし、感謝を満たし、勇気を満たし、愛を満たす方です。
だから、主イエスに求めるべきパンは、胃袋を満腹させるパンではなく、心を満たすパンでなければなりません。けれども、人々は、主イエスに胃袋を満足させるパンを求めました。それは、パン屋さんに行って、パンを求めているつもりで、寿司を求めているような、ステーキを求めているようなものです。イエス様をおいしくいただくためには、間違えたものを求めている自分に、まず気づいて、主イエスが与えようとしているものを求める必要があります。
 家内安全、商売繁盛、無病息災‥‥‥いわゆるそういったものを私たちは人生に求めます。それを求めることが悪いというのではありません。それは、だれしも願うことです。けれども、それを売っている“店”はどこにもありません。それを保証し、与える宗教は、どこにもないのです。そういう人間の願いに付け入る宗教はありますが、そういうものを保証する神さまがいるはずだと考えたら、それは幻想です。もちろん、その宗教の教えに従って生きることで、思わぬ運が開けてきたり、人間関係がうまくいったりすることはあるかも知れません。けれども、信仰を持ったら、すべてが自分に都合よく行くと考えたら、それは間違いです。
 けれども、財産、名誉、健康、友情、家庭‥‥それらは、私たちにとって大切なものに違いありませんが、たとえそれらがなくても、あるいはそれらを失っても、立ち直って、前を向いて、勇気を持って、愛を持って、感謝して生きていく。そういう生き方、そういう命の在り方を私たちに示し、模索させ、与えるものが、まことの宗教だと思います。そして、私たちにとってそれは、主イエスです。聖書の教えです。キリスト教だということです。
 そういう命の在り方を求めて、一言で言えば“救い”を求めて、私たちはキリスト教を信じ、あるいは求道し、教会に来ているのです。本を読んで興味を持った。キリスト教主義の学校で教会を知った。通りがかって中に入ってみた。人に誘われた、家族にクリスチャンがいた、家庭がクリスチャン・ホームだった‥‥。教会に来るようになるのは様々な動機があります。そして、どんな動機であれ、それはある意味で偶然です。
 けれども、主イエスはそのことを、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(44節)と言われています。確かに、同じような条件の下にあっても、教会に来る人と来ない人とがいます。その人の意思だと言えば、そのとおりです。けれども、主イエスは、偶然と思えるような動機、またその人自身の意志の背後で、父なる神さまが、あなたを引き寄せてくださっているからだと言われます。神さまが招いてくださっているからだと言われます。そういうことは、教会に来始めた当初はよく分からないものです。けれども、信仰生活を積み重ねていくうちに、主エスとの出会いは、偶然でもなく、また自分の意思と言うよりも、神さまのお招き、神さまの引き寄せ、聖霊なる神の霊的な働きなのだと納得できるようになっていきます。

 けれども、どんなにおいしい料理を出されても、おなかが一杯であれば、食べたいとは思いません。同じように、主イエスという、どんなにおいしいパンを出されても、心が空腹でなかったら、食べたいとは思いませんし、食べてもおいしくいただくことができません。おいしくいただくためには、心を空かせていることが肝心です。
 実は、私たちの心は空いているはずです。生きていれば、体を動かしていれば、お腹が空きます。そして、動かしているのは体だけではありません。生きていれば、心も動かしているのです。人間関係や関わっている事柄に、良くも悪くも考え、悩み、心を動かしています。だから、私たちの心は空いて来るのです。
 けれども、私たちは自分の“心の空腹”に気づかないことがしばしばあります。特に仕事や学業や生活が表面的にうまく行っている時は、気づかないことが多いのです。とは言え、そんなにうまく行くことばかりではありませんので、自分の心の空腹に気づくきっかけは人生において少なからず与えられます。現実的な悩みやトラブルが起こって、自分の心に欠けているものに気づくことがありますし、他人を見て自分に足りないものに気づくこともありますし、聖書を読んで、自分の生き方の間違いやズレを示されることもあります。そういう心の空腹、自分の内に欠けているものに気づくと、主イエスのもとに来る意識が変わって来ます。そして、不思議と説教が聴けるようになります。 
私も20歳ぐらいまでは、礼拝で説教を聞いても右から左、説教中にその日の昼食のことや趣味のことなど何か別のことを考えて、気を紛らしていました。けれども、20歳を過ぎた頃から、挫折を経験し、また聖書を真剣に読むようになって、自分の欠けを意識するようになってからは、説教が聴けるようになりました。自分に語りかけられている言葉として受け止め、考えるようになりました。
 説教って、はっきり言っておもしろい話ではないですね。寄席の話や漫才のように、おもしろく話せればと思うのですが、なかなかそういうふうにはできません。けれども、おもしろくない話を少しでもおもしろく聞くために、皆さんにお願いしたいことがあります。ぜひ、予告されている聖書の箇所を読んで来てください。事前に聖書を読んで、何が言われているのかを考える。特に、聖書の話(物語)という舞台に飛び込んで、その登場人物(当事者)に自分を置き換えてみて、自分の生活や問題とつながることを考えてみてください。そして、牧師の説教がおもしろくなるように祈ってください。それをして礼拝に臨んだら、きっと説教が少し違うものに聞こえてくると思います。

 礼拝の聖書箇所だけではありません。私たちは、体に栄養を補給するために、命を維持するために、毎日食事をします。同じように、聖書の言葉も、心に栄養を補給し、満たし、保つために、毎日いただくのが良いと思います。
 アーサー・ホーランド氏という学生伝道者、青年伝道者がいました。“私の名前はアーサー・ホーランド。夜でもアーサー(朝)、昼でもアーサー(朝)‥‥”で始まる彼の講演を、若い頃聞きました。その中で印象に強く残ったのは、“一日5分、一日の288分の1の時間を神さまに献げなさい。毎日3分聖書を読んで、2分祈りなさい。そうすれば、あなたの人生は必ず変わります”という言葉でした。そして、実際にやってみると、本当に自分の人生が変わるのを実感しました。目に見える現実が大きく変わるわけではありません。けれども、自分自身が変えられる。自分の内側が満たされて意識が変わる。そうすると、本当に人生が変わるのです。人生が違うものに見えてくるのです。
 私は1分でも良いと思っています。日曜日だけ主イエスの御(み)言葉を聞いて、平日は全く聞かないのではなく、1分でもいい、朝、御言葉を一つ、自分の内に入れて、一言祈って、信仰の思いをもって一日を始める。あるいは夜、御言葉を一つ、自分の内に入れて祈り、感謝と平安の内に休んで次の日を迎える。そうすれば、私たちの人生は確実に変わって来ます。
 そのように、主イエスの御言葉を摂取して生活する。聖書の言葉を自分の内に入れて積み重ねていく。やがてその御言葉は心の内に消化され、私たちの信仰生活の血となり、肉となります。主イエスの御言葉が自然と意識され、ちょっとした言葉や態度、行動に出るようになります。物事の考え方が、神の御心に自ずと沿うようになってきます。まるで、主イエスという方が自分の心の内に住んでいて、自分の心に絶えず御言葉を語り、愛を届けてくださっているように思えるようになります。
そのように感じられるようになった時、私たちは、主イエスという「命のパン」をおいしくいただいている、と言えるのではないでしょうか。“主イエスは命のパンである” “私の救い主である”と心から告白できるようになるのではないでしょうか。