2018年4月29日 主日礼拝説教
  聖 書 ヨハネによる福音書6章34〜51節(2)

  説教者  山岡 創牧師

6:34  そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。
6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
6:42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
6:43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
6:44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
6:46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
6:47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
6:48 わたしは命のパンである。
6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」


「 今日の命、永遠の命 」

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)。
 今日、司式者が聖書を朗読するのを聞いて、“あれ?”と思われた方もいるかも知れません。と言うのは、今、朗読された聖書の御言葉は、4月15日の礼拝で聴いた御(み)言葉と同じ箇所だからです。同じ聖書の箇所でもう一度説教をしています。私も、どうしようか迷いました。けれども、語り残したことがずい分あるなぁ、という思いが私の中にあって、もう一度お話させていただくことにしました。その、語り残したと思うことの一つが、「わたしのもとに来る」という御言葉です。

 今日の聖書箇所には、「わたしのもとに来る」という御言葉が繰り返し出て来ます。主イエスのもとにやって来る。6章22節からの一連の内容に沿って言えば、主イエスのもとに、飢えることのない命のパンを求めてやって来る、ということです。それは言い換えれば、主イエスを「信じる」ということです。主イエスのことを、私たちの内側に、生きる力を与えるお方、平和と愛を届けるお方、永遠の命を与えるお方と信じる、ということです。
 そして、主イエスは、ご自分のもとに来る人に対して優しいのです。「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(37節)と言われています。心に残る、愛に満ちた約束であり、宣言です。主イエスは決して私たちを拒まず、追い出さないのです。
 私たちは、こんな信仰では自分は主イエスのもとに来てはいけないのではないかと思ったり、こんな態度や生活では主イエスのもとに行く資格がないのでは、と考えることがあるかも知れません。
 けれども、そんなことはありません。主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とマタイによる福音書11章28節で語りかけてくださっています。人生に疲れを覚え、重荷を感じて、主イエスのもとで休みたいと願っている人を、主イエスは決して拒まず、追い出さないのです。
 デンマークの哲学者、神学者であったキルケゴールという人が、こんな言葉を遺しています。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」。そう言われても、あまりに悲しくて主のもとに来ることができないのなら、溜め息ひとつで十分です。あなたが主に向かって溜め息をつくこと、それもまた御許(みもと)に来ることなのです。
(『キリスト教の修練』より)
 肉体的に疲れ切ってしまって来れないこともあります。重荷が辛(つら)すぎて、行く元気が出ないこともあります。勇気が湧かなかったり、落ち込んでしまって、主のもとに来れないこともあります。自分の普段の言動を考えると、恥ずかしくて主のもとに行けないと思うこともあるかも知れません。けれども、主イエスのもとに行けない時、主を思い浮かべて、溜め息をひとつ、ハーッとつく。それだけで、あなたは主イエスのもとに来たことになる。体は教会に行けなくても、心は主イエスのもとに来たことになる。だから、安心しなさい、と語りかけてくださるのです。
 溜め息一つでさえも主イエスは受け入れてくださる方です。追い出さない方です。神とは、そういう方です。そういう方に、私たちは、「わたしのもとに来なさい」と招かれているのです。

 「わたしのもとに来る」。この御言葉で、もう一つ考えてみたいことがあります。それは、“だれのもとに行くのか”ということです。もちろん、それは言うまでもなく、“主イエスのもと”です。だれにだって分かります。
 けれども、言うまでもない当然のことが、実際の信仰生活ではそのようにならないことがしばしばあります。と言うのは、主イエスのもとに行くということを、教会に行くということに置き換えて考えた場合、私たちはともすれば、主イエスのもとに来るのではなく、“別のだれか”のもとに来てしまっていることがあるからです。主イエスのもとに来ているつもりで、教会のだれかのもとに来ていることがあるのです。“この人がいるから来よう”とか、反対に“あの人がいるから行かない”とか、そういう意識で教会生活を営んでいる場合があるのです。
 もちろん、最初のきっかけとしては、それでよいのです。教会のだれかに誘われて教会に来たとすれば、その人とのつながりは当然強いでしょう。その人を通して、神さまが教会に「引き寄せて」(44節)くださった、と言っても間違いではありません。あるいは、教会に来てみて、そこにいる人たちの明るい雰囲気、優しい態度や言葉に惹かれることもあるでしょう。教会に来て、そういう印象を持ったとしても不思議ではありませんし、そういう雰囲気が教会の中にあることは大事なことでさえあります。
 けれども、自分が教会に来ることについて、やはり私たちは、“自分は果して、何を求めて、だれを求めて、だれのもとに来ているのか?”ということを、どこかで見直してみる必要があります。あるいは、教会生活を続けていく中で、繰り返し、このことを自分に問いかけながら進むことが大切でしょう。もしも私たちが、どこまで進んでも、教会に“主イエスと私”という関係を求めず、人とのつながりで、人との関係を求めて、教会に来続けているだけだとしたら、主イエスのもとに来るということにはならないと思うからです。なぜなら、人との関係が切れれば、主イエスとの関係も切れて、教会にも来なくなり、信仰生活が終わるということになりかねないからです。
 キリスト教の小説家であった三浦綾子さんは、その著書『光あるうちに』の中で、次のようなことを書いておられます(170頁)。
  では、教会に通っている人は、人間の弱さを知り、痛みを知っているが故に、みな親切でやさしく導いてくれるに違いないと思うかも知れないが、決してそういう期待を抱かないことが肝要である。教会には、何十年も信仰生活を続けている人もあれば、先週初めて来たばかりという人もいる。‥‥‥自分の悩みだけで一杯の人もいないわけではない。その一人の誰かに何かを尋ねても、浮かぬ顔で、返事もしてくれないことだってあるかも知れない。そんなことで、キリスト信者でも冷たいものだと絶望し、二度と教会に行くまいと思う気弱な人もいる。
  このように、教会に来ている人全部が信者とは限らないし、信者もまたいろいろなタイプがある。わたしなど‥‥決して愛想のいい、やさしい人間ではない。生来ハッキリとものを言い過ぎ、語調も激しい。だから、わたしとしては、誰に対しても善意を持っているつもりでいても、その善意が善意として通らないことも言ったりする。
  要するに、神以外、キリスト以外に期待しないで教会生活をするのが、教会生活のABCであり、XYZでもある。つまり、これが初めでもあり、終わりでもある。
 三浦綾子さんは、信仰というものが本来、主イエス・キリストを求めること、主イエスのもとに来ることだという点から、良い意味で、このように書かれています。決して、教会には親切でやさしく、あたたかい雰囲気などない、なくていいと言っているのではありません。ただ、教会というところに、そういった人間関係を目的にして行くと、どこかでつまずくことになるから、良い意味で、人間に期待せず、主イエスに期待して、主イエスのもとに行くつもりで行きなさい、と書いておられるのです。
 そういう意味で、信仰を、教会を人間的な視点で見ないこと。私は、ユダヤ人たちが主イエスを見る目は、私たちにこの点を注意してくれていると思うのです。
 ユダヤ人は主イエスの言葉を聞いて、「これはヨセフの息子イエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降(くだ)って来た』などと言うのか」(42節)とつぶやきました。
 私たちはつい、そういう目で人を見てしまうことがあります。この人はだれの兄弟だ、あの人はだれの息子(娘)だ、といった色眼鏡で人を見てしまうことがあります。ともすれば、比較して見ていることさえあります。その人そのものを、その人として見られないのです。その人の本質を捉え損なうことがあるのです。
 そのように人を見る人間的な視点が、信仰と教会の本来を見損なわせることがあります。主イエスの本当の姿を受け取ることができずに終わらせてしまうことがあります。神さまに気づかせる霊的な視点を失わせるのです。

 「わたしのもとに来る」。私たちは、主イエスのもとに、霊的に来ることで信仰が養われ、培(つちか)われていきます。そのためには、私たちは、聞いて学ぶことが必要です。
 主イエスは、「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」(45節)と言われました。つまりそれは、父なる神の言葉を聞いて学ぶ、ということです。当時のユダヤ人ならば、旧約聖書の律法や預言書を学ぶということです。そして、現代の私たちの立場で言えば、聖書全体から、特に新約聖書の主イエスの言葉を聞いて学ぶということです。
 聖書の御言葉を聞いて、何を学べと言うのでしょうか?それは、父なる神の御心(みこころ)です。そして、父なる神の御心とは、主イエスが繰り返し言われているように、「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」(40節)です。そして、もしこの御心を一言で言い表すとすれば、神さまが私たち一人ひとりを愛してくださっているという恵みに集約されます。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)と言われているとおりです。
 そして、聖書の御言葉を通して、神の御心が私たちへの愛だということを知った人は、主イエスのもとに来るのです。なぜなら、この神の愛が主イエスのもとにあるからです。神の愛を、主イエスが私たちに語りかけ、届けてくださることが、聖書を通して分かるからです。その意味で、神の愛と同じ愛を持っておられるという意味で、主イエスこそ、父なる神を見た唯一のお方だと分かるからです。だから、私たちは主イエスのもとに来る。主イエスを信じるのです。

 この主イエスを通して与えられる「永遠の命」とは何でしょうか?永久に生きることではありません。主イエスは、「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(47節)と言われました。信じる者は“今”、永遠の命を得ているのです。その命とは、主イエスのもとに来て、主イエスと共に生きる命でしょう。神の愛のもとに、愛と共に歩む命でしょう。“愛”とは、変わることのない、朽ちることのない“永遠”です。その永遠のもとで、永遠に触(ふ)れて生きる時、私たちの命は「永遠の命」なのです。
 そして、それだけではなく、主イエスは繰り返し、「わたしがその人を終わりの日に復活させる」(40節、他)と語っています。歳を取って高齢となり、あるいは重い病を抱えたり、身近な人の死を経験すると、私たちにとって、人生の終わり、命の終わりということが大きな問題になります。けれども、主イエスは「終わりの日」の復活を約束してくださいます。地上の命が終わる時、新しい神の国、天国において、復活させていただき、直接神ともとで、主イエスのもとで、永遠の命に生きることを約束してくださっています。
 「永遠の命」とは、地上においても、また天上においても、「わたしのもと」に、主イエスのもとに生きる命です。愛を感じ、希望と平安を抱いて生きる命なのです。