2018年5月13日 主日礼拝説教
  聖 書 ヨハネによる福音書6章60〜71節

  説教者  山岡 創牧師

6:60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
6:61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。
6:62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
6:63 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
6:65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
6:66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
6:67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
6:68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
6:69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
6:70 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」
6:71 イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。





「 神の許しがなければ 」
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(60節)。
 今日、朗読された聖書の御(み)言葉を黙想しながら、最近、自分がこのように感じた話があっただろうか?と考えてみました。すると、聖書そのものや聖書を説き明かした説教集等で、「だれが、こんな話を聞いていられようか」と感じた話は思い浮かびませんでした。では、別の話で何かあったかな?と思い出してみると、一つ思い当たるものが浮かびました。それは、『嫌われる勇気』という本の中に書かれている内容でした。
 この本は数年前に流行った本で、アドラー心理学について書かれています。私は1〜2年前に読みました。本の中に登場する一人の青年と、アドラー心理学の学者(哲人)が対話をしながら、アドラー心理学の考え方を、具体的な例を織り交ぜながら説き明かしていく内容になっています。私はこの本を読み終えた時、これは“キリスト教心理学”だ、聖書の内容を心理学的に説き明かしたものだ、という印象を持ちました。“そうだそうだ、そのとおりだ”と9割方思いながら読み進むことができたのです。
 けれども、1つだけ、「だれが、こんな話を聞いていられようか」と納得のいかない内容がありました。それは、目的のために怒りを捏造(ねつぞう)した、という話でした。アドラー心理学では、原因があってその結果(行動)がある、のではなく、目的があって、その目的のために人は行動する、と考えます。対話の中で、青年は、昨日、喫茶店で、ウェイターがミスをして上着にコーヒーをこぼされ、思わずカッとして大声で怒鳴りつけてしまった、という話をしました。そして、これはウェイターのミスという原因があって、怒りが生まれ大声を出すという結果(行動)になったのだ、と青年は言いました。
 ところが哲人は、そのウェイターを屈服させるという目的ために大声を出した。大声を出して屈服させるために、怒りという感情を自分の中でつくり上げた、と言うのです。
 これだけを聞いたら、皆さん、ハァ?と思いませんか。青年の言い分の方がもっともだと私は感じました。青年もそう思ったように、哲人の言うことは、「だれがこんな話を聞いていられようか」という内容でした。
 けれども、哲人は言います。例えば、母親が娘と大声で口論していた。その時、電話がかかってきた。相手は娘が通っている学校の先生だった。母親の口調は、途端に穏やかな、丁寧なものに変わりました。そして、電話を切った途端、再び血相を変えて娘に怒鳴り始めた、というのです。つまり、怒りとは出し入れの可能な道具であり、娘を威圧し、自分の主張を通す目的のために怒りという手段を使っている、というのです。
 私は、うーん、なるほど、と思いながら、やはり、すっきり釈然とはしませんでした。けれども、考えてみると、それだけ私が、因果応報の思考、原因があって結果(行動)がある、という考え方に毒され、囚われているのかも知れません。ごく最近、この本をもう一度読み返してみて、先の“目的のために”という話が、1度目よりもすんなり、自分の中に入って来た感じがします。

 「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。五つのパンと二匹の魚で5千人の人を満腹させるという奇跡の業を主イエスがなさった後で、ユダヤ人は主イエスと、命を生かすパンについて対話をしていました。朽(く)ちるパンではなく、永遠の命に至る朽ちないパンを求めよ。そして、永遠の命に至るパンとは、主イエスご自身のことであり、主イエスの「肉」のことである。そのように言われる主イエスの言葉に、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」(52節)と反発しました。
 ところが、主イエスの言葉に反発を感じたのは、ユダヤ人の群衆だけではありませんでした。主イエスの弟子たちもその多くの者が、この話を聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と反発を感じて、主イエスのもとから離れ去って行ったのです。
 どうして弟子たちの多くが、主イエスから離れ去ったのでしょうか?主イエスの語る御言葉が「ひどい話」だから、もうついて行けないと感じて離れ去ったということでしょうか?これ、原因があって、その結果(行動)があるという考え方ですよね。
 私はふと、アドラー流に考え直してみました。つまり、離れ去った弟子たちには目的があった。それは、自分が持っている考えや価値観を肯定し、守ることである。そのために主イエスを否定し、主イエスから離れ去るという行動に出たのではないか、と。
 弟子たちもまたユダヤ人でした。そして、当時のユダヤ人は、神の掟を守り行うから、神さまに認められ、愛される。反対に、神の掟を守らない、行わないから、神さまに見捨てられ、呪われる。そういう因果応報的な信仰、原因があって結果があるという考え方をしていました。
 けれども、主イエスの教えは、そのような自分たちの信仰を一々ひっくり返すのです。例えば主イエスは、神の掟を守れない徴税人(ちょうぜいにん)や罪人と、しばしば一緒に食事をしました。掟を厳格に守るユダヤ人のファリサイ派の人々が反発すると、主イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2章17節)と言われました。徴税人の頭ザアカイの家に泊まった時は、「この人もアブラハムの子だ」(ルカ19章10節)、神さまに愛されている人間だ、とザアカイのことを認めました。ファリサイ派の人と徴税人が神殿で祈った時、神の掟を守り行っていることを誇りとしているファリサイ派よりも、自分を罪人と認め、「憐れんでください」と祈る徴税人が神さまに認められたというたとえ話をしました(ルカ18章13節〜)。また、とあるぶどう園で働いた労働者たちが、朝一番から働いた者も、夕方5時から働いた者も、同じ1デナリオンの報酬を、主人からもらったという、原因(労働量)と結果が釣り合わない話もしました(マタイ20章)。そういった主イエスの言葉の一つひとつが、神の掟を守り行うから認められ、守らない者は見捨てられると考えるユダヤ人と主イエスの弟子たちには納得の行かないものだったでしょう。そして、行う人、できる人が価値があると、私たちも考えているとしたら、私たちもまた主イエスの言葉が納得できず、主イエスの言葉を否定したくなるのではないでしょうか。
 そのために、主イエスの言葉を否定し、自分の信仰の考え方、自分の価値観を守るために、弟子たちの多くが主イエスのもとを離れ去ったのだ。そう考えることができるかも知れません。
 主イエスの肉を食べるということは結局、主イエスを信じるということです。自分の考え方、自分の価値観を守ろうとしたら、結局は何も触れ合わず、主イエスの言葉を受け止め、信じることができないのではないでしょうか。

 主イエスの言葉につぶやき、つまずく弟子たちに、主イエスは言われました。
「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(63節)。
 私たちに命を与えるのは神の“霊”、聖霊の働きだと主イエスは言われます。命とは、生きる力であり、勇気です。力を感じ、勇気が湧くのは、主イエスの言葉に感動するからです。その言葉にハッと気づかされ、ホッとして安心を得るからです。だから、主イエスの言葉は「霊であり、命である」と言われます。ですから、命をいただくためには、生きる勇気と力をいただくためには、主イエスの言葉を霊的なスタンスで聴く必要があります。肉的なスタンスで聞いたら、おそらく反発し、つまずくでしょう。肉的に聞くのではなく、霊的に聴く必要があります。
 では、霊的なスタンスで聴くとはどういうことでしょうか?それは、自分の価値観や信仰の考え方を、一旦脇に置いて、主イエスの言葉を否定せず、批判せず、そのまま聴いて自分の中に取り込む、ということでしょう。自分の価値観や考え方があって、それを主張して、主イエスの言葉を否定することが、肉的なスタンスだということになります。
自分の価値観や考え方を全く捨てて、盲目的に従え、と言うのではありません。ただ、最初から対立し、否定しながら聴くのでは、主イエスの言葉が伝えようとしている真理に、主イエスの御心(みこころ)に触れることすらできません。霊的なスタンスで聞いてみる。そして、もし主イエスの語る真理に、私たちの心が触れることができたら、私たちの価値観や考え方、生き方は、全く違うものに変えられる可能性があるのです。
 だから、主イエスの言葉に“でも‥”と言わない。以前にもお話しましたが、“主イエスはこう言われる。でも、私はこう考えるから受け入れられない”と言わないスタンスが大事です。そう考えたら、最初から主イエスの言葉を聴くことなどできなくなります。「実にひどい話だ」と感じる部分もあるかも知れない。100%納得することはできないかも知れない。けれども、50%でも、10%でも、1%でもいい、主イエスが伝えようとしていることを考え、受け止めるような聴き方をすることです。そこから新しい命の世界が、私たちの人生に拓(ひら)けてきます。
 もう一つは、聴いて受け止めたことを、自分の生活に、自分の生き方に、具体的に適用することです。そうすることで初めて、主イエスの言葉は、私たちの人生において「命」になるのです。私たちを生かす(活かす)ものになるのです。
 つい先日の集まりで、教会のある方が、だれかと意見や考え方が合わなかった時に、“この人は嫌いだ”ではなく、“この人は苦手だ”と考えるようにしている、と話してくれました。嫌いだと考えたら、その人を否定し、悪口を言ったりしてしまうかも知れない。でも、苦手だと考えれば、否定することなく、その人を認めて、一緒にやっていくことができる、というようなことを言われました。私は、なるほどと思いました。その方の生活の中で、主イエスの「言葉」は「霊」となり、「命」になっていると思いました。

 私には、主イエスの言葉を受け入れて、信じることはできない、と最初から決めつけることはありません。今すぐに、受け入れることができなくても、主イエスの言葉にはきっと、生きる力、生かす力が込められていると思って聴こうとすれば、いつかそれが分かって、主イエスを信じられるようになるかも知れません。
 確かに、「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」(64節)と言えるでしょう。結果的には、信じる人と信じない人に分かれるでしょう。けれども、自分は信じない者だと決めつけないでください。どうせ決めつけるなら、自分は信じられる人にきっとなれる、と考えてください。
 主イエスは、「最初から、信じない者たちがだれであるか‥‥知っておられた」(64節)と書かれています。けれども、それは、信じない者が最初から“決まっていた”という意味ではないと私は思います。もし、それが最初から決まっていて、しかもそれを主イエスが知っていたとすれば、主イエスは最初から、信じないと分かっている人を弟子に選び、教え育てるようなことはしなかったと思うのです。信じない者たちがいる。それを知っていたという表現は、あくまで結果論でしかありません。主イエスは、一人ひとりが信じる者となる可能性を信じておられるのです。結果的に裏切ったイスカリオテのユダでさえ、主イエスは、悔い改めることを信じて、最後まで「この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13章1節)のだと私は思っています。
 「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(68節)。弟子のペトロは信じて、こう告白しました。私たちも、霊的なスタンスで、主イエスの言葉には「命」があると信じて聴き続けましょう。それは必ず、私たちの内で、「永遠の命」へと続く道になります。