2018年5月27日 主日礼拝(大人と子供)説教
  聖書  ルカによる福音書4章16〜30節

  説教者  山岡 創牧師

4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
4:22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
4:23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
4:24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
4:25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、
4:26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
4:27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
4:28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
4:29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
4:30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。



「 この人はヨセフの子ではないか 」

 イエス様が神さまからお仕事を任されて、神の言葉をお話するようになったのは、何歳の時だったと思いますか?‥‥今日読んだ聖書の少し前、3章23節を見ると、「およそ30歳であった」と書かれています。ついでにお話すると、イエス様は神さまのお仕事をする前に、別の仕事をしていました。それは何だったと思いますか?‥‥‥三択クイズにしましょう。1.羊飼い、2.大工、3.漁師‥‥‥答えは、大工です(マルコ6章3節参照)。イエス様は元・大工さんでした。家を建てる大工さんではなく、家具を作る職人さんだったのではないかと言われています。
 そのイエス様が、30歳になって、ガリラヤ地方で神の言葉をお話するようになった。病気を治し、悪霊も追い出すようになった。イエス様は、ガリラヤ地方に住むたくさんの人々から尊敬され、“すごい!”“すばらしい!”と大評判になりました。
 その評判が、イエス様の故郷、ナザレにも聞こえて来たことでしょう。“知ってる?何でもヨセフさんち(家)の子がすごいらしいわよ”“方々で神の言葉を教え、病人を治しているんですって”“ほんとうかしら?”。そんな噂がナザレの人々の間には立っていたかも知れません。
 やがてイエス様が故郷ナザレに帰って来ました。そして、土曜日(安息日)になると、みんなが集まる会堂においでになりました。たくさんのお弟子さんも引き連れています。巻物の聖書がイエス様に手渡されました。イエス様はイザヤ書の言葉を朗読して、説教をされました。それを聞いた人々は、驚いて、また、イエス様をほめた、と書かれています。一見、良いことのように思われます。けれども、ほめるって、実は“上から目線”です。また、驚いたというのは、“あのヨセフさんちの子が、こんなに立派になるなんて!”という驚きです。みんな、イエス様の子どもの頃を知っています。抱っこしたおじさん、おばさんもいたでしょう。一緒に遊んだ友だちもいたでしょう。“自分たちはイエスのことをよく知っている”という目で、どうしてもイエス様を見てしまうのです。そのために、尊敬して“下から目線”でイエス様の言葉を聞けないのです。

 今日は、私たちの教会でいちばん小さなCちゃんがお休みです。最近とても教会に慣れて来て、色々な人に抱っこしてもらったり、遊んでもらったりしています。Kくん、もしもCちゃんが大きくなって牧師になって、この教会の礼拝で説教するようになったら、どうする?‥‥“あの小さかったCちゃんがよくぞここまで‥‥”と驚き、感動するかも知れませんね。それは悪くはないのだけど、ヘタすると“上から目線”になってしまいます。よく知っている人の言葉を聞くのではなく、“神の言葉”を聞く。そういう心の切り替えが、神さまを信じる時には、とても大事です。
・・・・(大人)・・・・
 女優のKさんは、ほとんどの方が知っていることと思います。ドラマはもちろん、化粧品等のコマーシャルにもしばしば、用いられて来ました。俳優のSさんと結婚し、男の子も生まれました。
 実は、このKさん、子どもの頃、私の出身教会であった川越市の初雁教会に通っていました。私と、ちょうど一回り(12歳)年下で、私が19歳で教会学校の奉仕を始めた時、小学校1年生でした。今のCちゃんのように、甘えてよくくっついてきました。(証拠写真も多数、たぶん初雁教会にあります・笑)中学を卒業して、芸能活動が忙しくなるまでは熱心に教会に通っていました。
 そういう関係があるため、テレビでKさんを見ていても、女優・Kというよりは、“知人・K”という目で見ているところがあります。

 故郷ナザレに帰って来た主イエスのことを、人々が、「この人はヨセフの子ではないか」(22節)と、これはよく知っている故郷の知人・仲間だ、という目で見る気持はよく分かります。神の言葉を語る預言者といった視点では見られない。どこかに“これは、自分たちがよく知っているヨセフの子イエスだ”という人間的な甘えが残るのです。
 私は53年、埼玉県に住み、教会と関わっています。初雁教会で27年、牧師になって坂戸いずみ教会で26年、信仰生活を続けて来ました。ですから、特に若い頃は、埼玉地区の教会の集まりに参加すると、他教会の年配の方々からよく聞かれました。“初雁教会の山岡磐先生の息子さんですか?”。聞く方々の立場に立てば、ごもっともな質問だと思います。確認の意味もあります。けれども、私はそのように聞かれるのが、けっこう嫌でした。ぼくは山岡創だ、“山岡磐の子”ではない。そんな反発心が、もちろん表には出しませんが、心のどこかにありました。いつか親父の方を“山岡創先生のお父さまですか?”と言わせてやる。そんな気持がありました。
そんな血縁、地縁、教会関係を変に意識している自分がいました。考えてみれば、自分の中にある一種の“甘え”でした。
また違う意味で、この種の甘えを意識して来ました。坂戸いずみ教会は初雁教会が開拓して生み出した教会です。私は、初雁教会の出身牧師として、この教会に赴任しました。そして、創設の当時、初雁教会から18名の信徒が坂戸いずみ教会に転籍しました。お互いによく知っています。そのことが悪い意味で甘えにならないようにと心がけました。それは、信徒の皆さんもそうだったでしょう。甘えは、気をつけないと馴れ合いを生み、自立した人間関係、自立した牧師と信徒の関係をだめにします。目の前の人間を見てしまって、神さまを見ずに信仰生活をしてしまうズレを引き起こします。

 「この人はヨセフの子ではないか」。その甘えが引き起こしたもう一つのズレがあります。それは、贔屓(ひいき)するのが当然、という意識でした。主イエスは、ナザレの人々の内にあるその意識を見抜いて、こう言われました。
「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」(23節)。
 「医者よ、自分自身を治せ」ということわざは“医者の不養生”という言葉を連想させるかも知れません。医者は他人の病気は治すが、自分が不養生で病気になりがちだから、まず自分に注意して、自分を治せ、という意味かと思うでしょう。けれども、そうではありません。このことわざは、他の町ではなく、自分自身の故郷で、まず病人を治せ、という意味です。つまり、隣り町のカファルナウムで行った病気の癒(いや)しや奇跡の業(わざ)を、特別な関係のある故郷の町で、それ以上にするのは当然だ、という意識です。
主イエスは、人々の中に、そのような贔屓を期待する特権意識のようなものがあることに気づかれました。そして、その期待を否定されたのです。
主イエスは、旧約聖書に描かれている預言者エリヤとエリシャの例を引き合いに出されました。エリヤとサレプタのやもめの話は、列王記上17章にあります。当時、ユダヤ人の先祖イスラエルは、アハブ王に嫁いだシドン人の王女イゼベルの影響もあって、異教の神バアルを信じる者が圧倒的多数でした。主なる神の預言者であったエリヤは迫害され、主に命じられて、国外のサレプタに避難し、そこで一人のやもめの世話になります。その際、やもめは異邦人であったにもかかわらず、エリヤが語る主の言葉を信じて従うと、パンを作る瓶の粉が尽きないという奇跡が起こったことが記されています。
 また預言者エリシャとナアマンの話は、列王記下5章にあります。シリア人(アラム人)の将軍ナアマンは重い皮膚病にかかります。イスラエルに病気を癒す優れた預言者がいると噂に聞き、彼はエリシャのもとにやって来ます。ところが、エリシャは直接会おうとせず、その使いが来て、ヨルダン川に身を浸せと言われ、そんなことで治るか!とナアマンは怒ります。けれども、家来になだめられ、その言葉に従って身を浸すと、重い皮膚病は治り、彼は主なる神をあがめるのです。
 不信仰なイスラエルの人々(ユダヤ人の先祖)には、神の恵みは働かず、彼らが蔑(さげす)む異邦人であっても、神を信じて、その御(み)言葉に従う人には、主の恵みが実現する例として、主イエスは、二つの話をなさいました。あなたがたも、先祖たちと同じく不信仰だと主イエスは指摘しているのです。裏を返せば、その不信仰に気づき、悔い改めよ、と促しているということでしょう。
 自分たちは神さまから選ばれた民族だと自負し、神さまから贔屓され、優遇されて当然と考える特権意識。また、同郷の仲間だという理由だけで、主イエスを通して、病の癒しや奇跡を期待する思い。それは神への信仰とは呼べない、不信仰だ。そういう自分を“これでよいのか?”と省み、知人の言葉ではなく、“神の言葉”として聞き、従う思いがなければ、主の恵みは実現しない。そのように主イエスは語っています。しかも、同郷の親しい人々に敢えて、いや親しい人々だからこそ愛と勇気を持って、おそらく憎まれることも覚悟して語りかけています。
 ふと、〈相棒〉という刑事ドラマを思い起こしました。水谷豊演じる警視庁特命係の刑事・杉下右京は、正義感が強く、情けに篤(あつ)く、知識と推理力に富んだ敏腕刑事です。彼は、鋭いひらめきで、普通の刑事の気がつかないような小さな違和感に着目し、そこから事件を解きほぐし、解決します。その鋭い目は、時に警察内部にも向けられます。ドラマの中では、警察内部で犯罪事件が起こると、警察は警察という身内をかばおうとします。その隠ぺい工作に杉下右京の目が向けられると、彼らは必ず“警察は、警察内部の人間をかばって当然だろう”と言います。けれども、杉下はそれをゆるさず、事件にメスを入れ、警察内部の汚点を暴き出すのです。そういう態度が、警察の仲間内からは煙たがられて、彼は特命係という窓際に追いやられているのです。何だか、主イエスがナザレの人々の信仰の間違いにメスを入れ、そのために、“ナザレの窓際”、崖から突き落とされそうになった、という話と似ている気がしませんか。

 残念ながら、主イエスの言葉は、ナザレの人々には通じませんでした。彼らは主イエスの言葉に怒り、主イエスを殺そうとさえするのです。どうして主イエスの言葉は、ナザレの人々に通じないのでしょうか?それは、その心に“貧しさ”が足りないからではないか?そんな気がします。
 主イエスは、イザヤ書61章1節を引用して、「貧しい人に福音を告げ知らせるために」(18節)と言われました。「貧しい人」とは文字通り、経済的な意味で貧しいということもあるでしょう。けれども、もう一つ“心の貧しさ”ということを考える必要があります。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5章3節)と主イエスは教えられました。普通、私たちは、貧しい心を豊かにしようと考えるのですが、主イエスのこの教えでは、言葉の表現の上では反対です。心の豊かな人ではなく、心の貧しい人が幸いなのです。
 貧しいとは、持っていないということです。だから、心が貧しいとは、心に何も持っていないということです。その心に、ユダヤ人なのだから神さまに優遇されて当然だ、同じ故郷の仲間関係なのだから、贔屓されて当然だ、そういう特権意識、信仰の間違った意識を持っていない、その意識にこだわり、自分たちは正しいのだと自分を正当化し、絶対化していないということだと思います。
 コップが空であれば、その中に飲み物がたくさん入るように、私たちの心も貧しく、空であれば、神の言葉が素直に、たくさん入って来るのです。それが、信仰的な豊かさであり、幸いと言われる所以でしょう。
 ナザレの人々が、ユダヤ人としての間違った自負や特権意識を持たず、心に凝り固まったこだわりがなかったなら、彼らは、主イエスが語る「恵み深い言葉」(22節)を上辺だけではなく、まさに“恵み”として受け止めることができたでしょう。凝り固まった自負や特権意識に「捕らわれている人」(18節)は自分だ。神さまの御心が「見えない人」(18節)のは自分だ。掟と伝統に「圧迫されている人」(18節)は自分だ、と気づくことができたでしょう。そのような状態から、主イエスが、御言葉によって、行動によって教え導き、解放し、回復させ、自由にしてくださる「主の恵み」(19節)を実感することができたでしょう。そうです、もし彼らが、そして私たちも、傍観者や評論家のように聞くのではなく、御言葉を語りかけられている“当事者”として、捕らわれている人として、目の見えない人として、圧迫されている人として、主イエスの言葉を聴くならば、まさに「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)と言われていることが起こるのです。“私”の中で、この聖書の言葉が実現するのです。「主の恵み」(19節)が与えられるのです。
自分を正当化し、自分の価値観や考え方、信仰を守ろうとすれば、私たちは他人を受け入れず、崖から突き落とす(否定する)ことになります。ともすれば神さまさえも否定し、殺すことになります。そんなつもりでなくても、そうなっている。独善の恐ろしさはそこにあります。
 その独善、“私の独善”に対して、勇敢にメスを入れて来る主イエスの言葉に“貧しい心”で耳を傾け、主の御言葉による解放を、回復を、自由をいただき、喜び感謝する者でありたいと願います。