2018年6月3日 主日礼拝説教
  聖書  ヨハネによる福音書7章1〜9節

  説教者  山岡 創牧師

7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。
7:2 ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。
7:3 イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。
7:4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」
7:5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。
7:6 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。
7:7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。
7:8 あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」
7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。




「 神の時、人の時 」

                   〜 わたしの時、あなたがたの時 〜
今日の聖書の御(み)言葉を黙想していて、ふと“モテ期”という言葉を思い起こしました。年輩の方は、モテ期という言葉をご存じでしょうか?それは、人生においてモテる時期という意味です。“人生にはモテ期が3度ある”なんて言われたりします。
 私の人生に、モテ期はあったかなぁ?と思い出してみると、確かに3度あったように思われます。1回目は小学校4年生の時、2回目は中学2年生の時、そして3回目は22歳の時。これ、私の人生で、すべて両想いになった時です(笑)。
 恋愛・結婚研究所という機関が、モテ期について、35〜55歳の男女にアンケート調査をしました(一応、私もまだ調査対象の年齢に入っています)。その結果、自分の人生にモテ期は何度あった?という質問では、女性の場合、1位が2回、2位が0回、3位が3回で、男性の場合は1位が0回、2位が2回、3位が1回ということです。
 また、モテ期って何?という質問に対しては、たくさん(複数)の人に告白される、異性にチヤホヤされる、彼氏・彼女がいてアプローチされる、出会いが増える、といったイメージが寄せられています。50歳前後の人になると、人生が輝いている時なんていう回答もありました。
 ちなみに、研究所のにらさわあきこ氏によれば、モテ期とは、複数の人からモテている状態の時期を言うのだそうで、1人にモテると、それが呼び水となって他の人にもモテるという状態になりやすいということです。そういう時には、出会った人を大切にしたり、積極的に行動するのが良い、というアドバイスも書かれていました。
「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている」
(6節)
 この御言葉から、私は、モテ期という俗な連想をしました。イエス様は、人としては独身で過ごされたようですが、イエス様にはモテ期という時があったのだろうか?そんなことも考えました。俗な連想ついでに、“信仰的なモテ期”というものを考えてみましょう。
 信仰的に考えてみると、イエス様って、ずっとモテ期なのではないでしょうか?なぜなら、父なる神さまにいつも愛されているからです。いや、それを言うなら、私たちも常にモテ期なのかも知れません。父なる神は、“あなた”という一匹の羊を見失ったら、99匹を野原に残してでも捜すお方だ、とイエス様はお話になりました(ルカ15章)。また、ヨハネの黙示録(もくしろく)3章終わりには、イエス様は絶えず、私たちの心の扉をノックしている。玄関に立って、“私と一緒に食事をしませんか?”とデートに誘ってくださっていることが書かれています。その意味では、神さまは、イエス様は、いつも私たち一人ひとりにアプローチしておられるわけです。それに応えたら、私たちの信仰生活は、モテ期どころか、ラブラブな関係、神さまと両想いになれるのでしょう。

「わたしの時はまだ来ていない」。それが、主イエスが、エルサレムで行われる仮庵祭(かりいおさい)に上京しない理由でした。仮庵祭とは、ユダヤ人の伝統的な祭り(三大祭)の一つで、10月の初旬に8日間行われます。ユダヤ人の先祖が、モーセに導かれてエジプトを脱出し、約束の地を目指して荒れ野を旅していた時、神さまと共にテント生活をした、仮住まいの生活をした。その時の苦労と恵みを記念する祭りです。秋の収穫祭も兼ねていました。
祭りの時には、多くのユダヤ人が、ガリラヤ地方からもエルサレムに上りました。もちろん主イエスも、祭りを祝うために、神殿で神さまを礼拝するために、何度も上京したことがあります。
そのように祭りでエルサレムに上京した際に、主イエスは神殿で事件を起こしました。「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(2章16節)と叫んで、神殿の境内で売られていた牛や羊や鳩を縄の鞭で追い出します。また、外国のお金を両替していた机をひっくり返し、そのお金をまき散らしたことがヨハネ福音書2章に記されています。動物は、神殿に参拝した人が、神さまに献げることができるように売られていましたし、両替は外国の貨幣をユダヤのお金に換えて献金ができるように便宜が図られていました。けれども、表向きはそうですが、実は祭りを利用して商売がなされていました。神さまを利用して、人が金儲けをし、その欲を満たしていました。その間違いに主イエスはメスを入れ、神さまに対する不誠実な態度を正そうとされたのです。けれども、その結果、主イエスは神殿を管理している祭司たちに憎まれることになりました。
また、やはり祭りでエルサレムに上られた時、ベトザタの池のほとりで、38年間、病に苦しんでいた人を主イエスが癒(いや)した話が5章に記されています。その日は安息日(あんそくび)であったため、安息日に働いてはならないという神の掟を破った、と言ってユダヤ人たちから、おそらくファリサイ派の人々から主イエスは咎(とが)められました。その時、主イエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(5章17節)とお答えになりました。杓子定規(しゃくしじょうぎ)に掟を考えて、神さまの愛の心を受け止めず、弱い人を苦しめているユダヤ人の信仰生活に、主イエスは異を唱えたのです。けれども、それを聞いたユダヤ人たちは、安息日の掟を破るだけではなく、神を父と呼び、自分を神と等しい者として神を冒涜(ぼうとく)したと言って、主イエスを迫害し、殺そうとさえ考えるようになったと書かれています。
そのように、「ユダヤ人が殺そうと狙っていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった」と今日の1節にあります。それが、主イエスがユダヤ地方のエルサレムに上京しない表向きの理由でした。

 けれども、その様子を見て、主イエスの実の兄弟たちが、エルサレムに上るように促した時、主イエスは「時」ということを口にされたのです。「わたしの時はまだ来ていない」と。
 主イエスが考えておられる「わたしの時」とは、どんな時でしょうか?ヨハネによる福音書を読み進んで行くと、12章23節で、「人の子が栄光を受ける時が来た」と主イエスが言われている言葉が出て来ます。「わたしの時」とは「栄光を受ける時」です。けれども、「栄光」というのは、私たちが普通に考える栄光とは全く違います。むしろ正反対です。
 「栄光」と言うと、私たちは、成功したり、勝利を手にしたり、名誉を与えられたり、地位や財産を手に入れたり、といったことを考えるでしょう。けれども、主イエスの栄光とは、そういうことではありません。神さまの御心(みこころ)が何であるかを汲み取り、自分がどのように生きるべきかを考え、愛と正義を貫く時です。そのように父なる神に従って、この世の栄光ではなく、神の誉れをいただく時です。
 けれども、その生き方は、結果的には十字架刑を招きました。主イエスは十字架に架(か)けられて殺されるのです。神殿の祭司長一派やファリサイ派の人たちに、はっきりとモノを言い、行動したため、憎まれ、迫害され、掟を破り神さまを冒瀆したと罪を着せられて、殺されるのです。世間的には、栄光どころか、敗北であり、失敗なのです。
 けれども、その主イエスの生き方こそ、人間の正しい道だと思う人がいる。きっと後を継ぐ者が出て来る。実際、主イエスの弟子たちは、一度は我が身の保身を思い、主イエスを見捨てて逃げ去りますが、後に悔い改めて、主イエスの教えを宣(の)べ伝える者となるのです。後を継ぐ者となるのです。その意味で、一度は途絶えた主イエスの道(生き方)は復活します。その道は2千年後の今日まで続く道です。主イエスの十字架は、復活へとつながるのです。それがまさに、主イエスの「栄光の時」です。
 であるならば、「あなたがたの時」とは何でしょうか?その「時」が「いつも備えられている」とはどういうことでしょうか?7節には、世はあなたがたを憎まないが、主イエスのことは憎む、とあります。憎まれないのはなぜか?世に迎合しているからです。祭司長たちやファリサイ派の人々の考え方や価値観といった“長いもの”に巻かれて、表面的な成功や利益を考え、この世に迎合して生きているのであれば、それは皮肉な言い方をすれば、常に“時を得ている”ということ、「あなたがたの時はいつも備えられている」ということになります。この世はいつでもそういう生き方ができるのです。
 けれども、裏返して見ると、本当の意味が見えて来ます。それは、表面的な成功や利得を求めることや、考えることをやめて、曖昧(あいまい)に、無難に生きようとする生き方の間違いにハッと気づき、悔い改めて祈り、勇気を持って自分を変えていくチャンスは人生、いつでも与えられている、ということです。人間本来の正しい道を生きるチャンスは、私たちに、いつも備えられているのです。

 日大のアメリカン・フットボールの事件が、世間を揺るがせました。関西学院大学との定期戦で、日大のディフェンスの選手が、相手のクォーター・バックの選手、いわゆる司令塔の選手に、プレーと関係ないところで、故意にタックルし、けがを負わせ、負傷退場させました。しかも、それは監督、コーチの指示だったのではないか、ということで大問題になりました。当初、彼らは、そのようなことを意図して指示を出したのではない、と否定していましたが、選手本人がマスコミの前で記者会見し、自分のプレーを謝罪しました。その上で、監督やコーチの言葉をそのように受け取ったこと、また、そのように受け取らざるを得ないパワーハラスメント的なチームの指導体制、体質を明らかにしました。
 なかなか真相が明らかにされない中で、タックルをした選手本人は、とても苦しみ悩んだことでしょう。そして、自分の間違いを世間に公表して謝罪することは、非常に勇気と決断を要することだったでしょう。
 けれども、おそらくこの世の成功を求めて生きて来た彼は、この事件を機に、人とは何か、人として生きるとはどういうことかを考えさせられたのでしょう。そして、世間体を捨て、保身をやめ、自分を守り、正当化することを良しとせず、自分に正直に、他者に誠実に、人生にまっすぐに生きようと思ったのではないでしょうか。それは、今日の聖書の御言葉で言えば、「わたしの時」が来たことを受け止めて生きた、ということでしょう。
 ただ単純に非難したり、ほめたりするつもりではありません。あの指導者たちのような考え方や保身、自己正当化の思いが、私(たち)の中にもあります。そして、あのような人間関係の体質、体制が、私たちが生きている職場や学校という現場にもある。いや家庭の中にさえ、教会の中にさえあるかも知れません。そのような生き方や体質、体制を、いつも備えられている「わたしの時」にしてはなりません。主イエスが言われる「あなたがたの時」を、そういう時ではなく、自分を省み、自分が生きる現場を省みる「時」とする。主イエスの御言葉に聴き、どんなことを語りかけられ、求められているかを考える「時」とする。そして、愛と正義に生きるために、人としてまっすぐに生きるために、小さなところからでも、具体的に変えていく「わたしの時」としていきたいと思うのです。
 「時」とは往々にして厳しい要求を私たちに求め来るものだと思います。弱気になって、くじけそうになります。「時」に応じるには勇気が必要だと思います。でも、私たちには御言葉があります。祈りがあります。御言葉と祈りを通して、主イエスが共にいてくださいます。聖霊が働いてくださいます。後押しされます。支えられます。こんなに心強く、安心で、まっすぐに生きられる道は、そうはありません。