2018年6月24日 主日礼拝説教
  聖書  ヨハネによる福音書3章1〜5節

  説教者  鈴木崇巨牧師

3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。


「 ハレルヤは聖書の祈り 」

 今日は「ハレルヤの祈り」についてお話をさせていただきます。
 こちらの教会の皆様は、もちろん「ハレルヤ」という言葉をご存知です。
私が奉仕していた教会でもよく「ハレルヤ」という言葉をお祈りの中で使っていました。しかし、あるとき外部の講師をお招きして、礼拝説教をお願いしました。終わってから、その講師の先生が「鈴木先生の教会は少し変わっていますね。礼拝の司会者がお祈りの中で『ハレルヤ』というものだからびっくりしました」とおっしゃいました。
それを聞いて私の方が驚きました。お祈りの中ではハレルヤという言葉は、クリスチャンにとっては、日常語ではありませんか。その講師の先生の教会ではあまり用いないのですね。それはよくないと、私は思います。
 ハレルというのは賛美せよ、という意味です。ヤはヤハウェ様、つまり聖書の神様のことです。ヘブライ語です。
ですからハレルヤとは「ヤハウェ様を、賛美せよ」とか、「主を賛美します」という祈りの言葉です。詩編の中にたくさん出てきます。詩編はお祈り集ですから、旧約聖書の人々はしょっちゅう「ハレルヤ、ハレルヤ」と祈っていたのですね。ぜひ、皆様も「ハレルヤ」というすばらしい言葉を上手に使えるようになっていただきたいと思います。
 私は毎日、聖書を読んで、心を静めて、お祈りします。最初に目の前に父なる神様とイエス様がいらっしゃるとイメージして、(指のように)その神さまに向かってハレルヤ、ハレルヤと賛美します。もう少し具体的に言いますと10回も20回も「ハレルヤ、ハレルヤ」と唱えるように言います。非常に忙しい時にはこれで終わることがあります。それでもいいと私は思っています。皆様への参考になればと思います。
 なぜかといいますと、神を賛美するのがお祈りの中心だからです。
日本人はお祈りと言うと、「お願い事」と思い込んでいるからです。聖書はお願い事の祈りは一番最後です。
 聖書によれば、神が世界を造りました。地球、太陽、星、広いです。それが太陽系ですね。太陽系のようなものが宇宙にいっぱいあります。それをまとめて銀河と言います。ものすごく広いのが宇宙です。そういう銀河系がいっぱいあるのです。宇宙は限りなく広いのです。でも、神さまにとっては、それが箱庭のようなものです。
神さまが声を発すると、そのような世界ができました。なんというすばらしい不思議な力を、神はもっておられることでしょうか。
しかも、その神さまには性質があり、本性は愛の塊(かたまり)。その神の前に出ます。
驚きと感激の言葉が出てきます。それが「ハレルヤ」です。
ぜひ、皆様も毎日、お祈りをするときには、「ハレルヤ、ハレルヤ」と、まず神をほめたたえてください。
ご年配の方でしたら、「サーカスの歌」(美しき天然)という曲をご存知だと思います。美しい日本の四季を歌っている曲です。私はその歌が好きです。歌詞もいいですね。
讃美歌に入れたいと思っています。申し上げたいことは、偉大な力を持つ、栄光に満ちておられる神を賛美しましょう。しかも、その神の本性は愛の塊である。これがキリスト教のお祈りの中心でなければなりません。その神をたたえる祈りがハレルヤです。
 私の教会で講師をしてくださった、私の友人の牧師さんは、日本基督(キリシト)教団の牧師です。お祈りの中で一番大事な「ハレルヤ」という言葉をきいて驚いたというのを聞いて私の方が驚いた理由がお分かりいただけますか。今皆さん、日本基督教団の教勢はじり貧です。当たり前です。「ハレルヤ」の祈りをしないような、あるいは知らないような教会は、十字架におかかりくださったイエス・キリスト様にふさわしくないと思います。停滞して当然。
 今日本の多くの教会で祈られている祈りはどのようなものかというと、「お願い事」ばっかりです。ときどき感謝が入る程度です。お願いと感謝。それは約8万社くらいある神社の祈りと同じです。悲しいですね。日本の教会も地に落ちたものですね。
皆さん、そういう祈りをしていたら、貧弱なキリスト教信仰になってしまいます。
「神さま、ああしてください、こうしてください」という祈りは、後ろの方にちょっと置いておきましょう。キリスト教の祈りは神を賛美する祈りです。
 聖書の人々は、食事の前に、「この食べ物を与えてくださる神はほむべきかな」と。
 日本人は「神さま、この食べ物を感謝します」と。
皆さん、この二つの祈りの違いが分かりますか。
聖書の教えは、神さまが主語になるのです。「神がほめたたえられよ。」
日本人の祈りは自分が主語になるのです。「私が感謝します。」(これもいい。)
 聖書ではいつも神様が中心です。神を中心にするということが日本人にはわからない。皆さん、骨の髄まで神様が中心の信仰に至りましょう。このように偉そうなことを言っている私は、骨の髄までクリスチャンになっているとは言えません。ただそうなりたいと思って日々精進しています。
 「ハレルヤの祈り」が出てくるために、大切なことは、目の前に神様を見る、という姿勢だと、私は思います。栄光の神を見て「ハレルヤ」とたたえる、これが一番大切なポイントです。皆さん、今、世界では、私たちのような、宗教改革から始まった歴史的な教会は、停滞しています。入道雲のように、ここ70年、80年くらいで、大きく成った教会があります。世界の宗教地図がまったく様代わりしています。ただ日本は気づいていない。
ヨーロッパに行っても、アメリカに行っても、昔からある教会、たとえば長老教会とかルーテル教会とか、メソジスト教会とか、そこから出て来たホーリネス教会とかはだんだんとしぼんできています。これを歴史的・伝統的教会の凋落(ちょうらく)と言います。
それと代わって、ホーリネス教会から出て行ったペンテコステ教会が世界中でみるみる大きく成りました。これが過去70年から100年くらいの間に起り、進行形。日本を除いてです。日本は島国ですから、世界の流れから取り残されています。おたがいにいいよ、いいよ、と言って慰め合っています。ですから、知らない人が多い。
 アフリカ、南アメリカでは、ペンテコステ教会が爆発的に伸びています。つまり南半球でキリスト教が爆発しているわけです。
北半球でも、アメリカで、ヨーロッパで、どんどん移民が入り人口が増えています。それらの多くがペンテコステの信仰を持っています。あるいはそういう非常に困窮した人々に、ペンテコステ教会が真っ先に駆けつけて伝道しています。20年前のアメリカの教会を知っている人は、今アメリカに行くと知らなかった間に様変わりしていますよ。
皆さんがご存知の教会は低迷しています。「教会はだめになった。」クリスチャン人口そのものは増えているのです。なぜか。私たちが知らない所で、一部のクリスチャンは、良い地に落ちた種のように50倍、100倍になっています。
 旧来の教会とペンテコステ教会とどこに違いがあるのか、「水と霊による生まれ変わりです」。これが今日の聖句ヨハネ三章です。水による生まれ変わりとは洗礼の水のことです。プロテスタントの人々もカトリックの人々も水による洗礼を受けています。皆変わりありません。霊による生まれ変わりとは、聖霊を受けて熱心な信者になることです。
ところが、聖霊を受けるというのには、程度に差があるのです。
その差が、世界のキリスト教界の地図を塗り替えています。熱心な派が伸びています。
 「私も、皆さんも、霊に満たされなさい」と言って教えられてきました。
 ところが、聖書では、聖霊に満たされた人々が、異言(いげん)を語り、癒(いや)しを経験し、ハレルヤと神をほめたたえています。不思議な体験をしています。
他方、私たちはそういう体験をしていません。そのような不思議な体験・体験と言う人々を、私たちは異端者だと言って蔑(さげす)み排除してきました。しかし、その排除された人々が、世界中に溢れるようになりました。霊による生まれ変わりとは、そういう人々のことです。
イエス様がニコデモさんに「霊によって生まれ変われ」と言ったのは、その言葉通りの意味です。(ここの詳しい説明は省略)説明のしようがない聖句です。あまりにも簡単なことだからです。聖霊を受けると、私たちは変るのです。聖霊を受けていない人は生まれ変わっていないですよ。ニコデモ。そして受けた人々を異端者扱いにしていてはだめです。
 私は礼拝の祈りとか日々の祈りという本を書きました。今申し上げたことを念頭に置きながら書いた本です。お願いごとの祈りはちょっと横に置いて、まず聖霊を受けて、ハレルヤと神をたたえる祈りをしなさい、と言うことが書いてあります。しかも、理屈っぽく説明しないで、「たとえばこういうお祈りです」とサンプルの文章を示しました。
 皆さんが、私の主張を分かってくださるのです。ところが、なかなか浸透しません。
相変わらず「お願い事」の祈りばかりです。かつて300万人以上の国民が死んで、戦争が終わっても、なかなか日本人は民主主義は根付かなかった。
教会もまだ本当の民主主義を分かっていない。
同じように、キリスト教の祈りはハレルヤあるいは賛美の祈りでなければならない、と言っても、なかなか願い事の祈りから抜け出ることができないのです。
皆さん、ぜひお願いごとの祈りは後回しにして、賛美の祈りを発達させてください。発達ということは、美しい日本語を使って、新しい表現を生み出してください。今までの日本の教会にはなかったのです。そうすれば、あなたの信仰は飛躍的に成長します。あなたは異言を語りだすかもしれません。あなたが祈ると癒されるかもしれません。あなたはよろこびでみたされるかもしれません。
 そのように「なる」一番現実的で力強い方法は、第一歩は、「ハレルヤ、ハレルヤ・・・」と神を見て、神を賛美する祈りをし始めることです。
 外国で、すばらしい熱心な信仰を持ち、よしっ!と日本にペンテコステの信仰を広めようとした人々がいました。ところが月日が経つと、信仰の熱が弱くなってゆきました。ペンテコステ教会も、伝統的な長老教会のようになってゆきました。日本という国は何という国なのでしょうか。日本にはキリストの教えは根付かないのでしょうか。
 私は世界のキリスト教界は、歴史的大転換を起こしていると言って説明しますと、ほとんど100%の先生方は、私に「鈴木先生、お話は分かりますが、あのペンテコステの人々には注意しなければならないことがあるのです」と言って、誰それ先生はスキャンダルを起こした、分裂した。マイナスになる事ばっかりを取りあげます。
周りにいる人々の顔色ばかりをうかがって、良いところを、本質を、見ていないです。
人がどうであれ、自分はこうするんだという性質が日本人にはないですね。
 日本人は恐れを心の中に持っています。それがどこから来たのが、私は文化人類学者ではありませんので、分かりません。しかし、もうこれからは、何事も恐れないで、神さまにお委(ゆだ)ねして、十字架におかかりくださいましたイエス様を全能のヤハウェ様と信じて、「ハレルヤ、ハレルヤ」と神を賛美してゆきましょう。必ず道は開けていきます。
 反対する人がいてもいいではありませんか。お祈りはきわめて個人的なことなのですから、人の言うことなんか、馬耳東風(ばじとうふう)で、知らん顔をしていればいいだけのことです。
自分の部屋に入り、栄光の神、十字架のイエス様を思い、ハレルヤ、ハレルヤと祈り、神さまから直接励ましと力を受けていればいいだけのことです。祈りの本質は、あなた自身と神様のことです。こういうことを言うと、「人はひとりで生きているのではなく、人々と共に生きている」。教会はコミュニテ―です、集合の祈りをしなければならない、とかなんとか言って、現代は祈りが本質的なことから離れ、別な問題にされています。
 ハレルヤ、ハレルヤ、とただ神を賛美し、礼拝することが、そもそも礼拝というものではないですか。ところが最近の日本キリスト教団の出す礼拝の本や雑誌では、人間が中心の、人間のための、人間が理解できる、礼拝儀式あるいは演劇の構成のようになり、開会の部、御(み)言葉の部、奉献(ほうけん)の部、閉式の部などのような人間の儀式にしています。礼拝とは激しく神をハレルヤと賛美するだけですのに、人間の儀式にしています。
なぜか、これはエキュメニカルと言えば、何でも受け入れてもらえると思い込んでいる西洋かぶれから来ていると私は思います。もう少しいうと、カトリック教会にすり寄っているヨーロッパのほんの一部の教会のマネをしているだけです。そのヨーロッパの教会はどんどん衰退して行っています。
 ハレルヤの祈りだけでなく、ハレルヤの礼拝も大切にしなくてはなりません。ハレルヤを大切にしている教会が、世界的に多くなってきていると言うことです。
 私たちにとって、難しいことではありません。たとえば、皆様が「ああ神様、あなたはイエス様をこの世に送り込んでくださったことを感謝します」というような祈りをしますね。
 そういうとき、「ああ神様、イエス様の十字架のゆえに、神さまをまたイエス様を、ハレルヤと賛美します」と、言葉を(表現を)ちょっと変えるだけです。
そのちょっとの変化が、つもり重なって、大きな影響を与えてきます。
なぜなら、言葉は大きな力を持っているからです。神は言葉で世界を造られました。言葉がこの世においでになりました。それがキリストです。
素晴らしい言葉、すなわち、ハレルヤという言葉をもって神を賛美しましょう。